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    最近私は、『鎌倉浄土教の先駆者 法然』という著書を、吉川弘文館より出版いたしまた。法然(ほうねん)は地方豪族の出身で、幼くして父を夜討ちで亡くし、敵の手からのがれるために、当時アジールでもあった美作国の菩提寺に、叔父の観覚を頼って、身を寄せました。観覚は甥の非凡さを見抜き、比叡山の源光に身柄を預けます。源光はさらに皇円に預けて、皇円のもとで出家得度させました。天台3大部という天台宗の基本図書を閲読した後、18歳になったとき、叡空を訪ねて、幼少の昔から父の遺言が忘れられず、隠遁の志が深い訳を述べます。すると叡空は「法然道理の聖(ひじり)である」と喜び、「法然房源空」という法名を与えたといいます。




    法然は、師の叡空に同宿させてもらった上に、衣食まで扶養してもらたが、仏法に関してはすべてを習ったことはなく、考え方は火と水のように異なり、いつも議論を戦わせておりました。叡空は気短で、論破する法然に暴力をふるいました。法然はそうした師匠にあきれて去ったわけでもなく、叡空もたてつく法然を破門したわけでもないのです。なんとも奇妙な師弟関係でありました。その叡空が亡くなる時に、法然に遺産の房舎聖教を贈る書状をっしたため、「譲り渡す」と書いていたのを、「進上」と改めて、弟子の礼をとったと言います。




    法然はいう、「学問は初めて見定めることがきわめて大事である。師の説を受け継ぎ習うは容易だ。ところが、私は諸宗すべてをみな自分ひとりで注釈書を見て、理解した。通常、すぐれた学僧といっても、大乗の戒律について、私のように学習したものは少ない。今の世に書物に広く目を通した人を、私は誰もしらない。書物を読むときに、これはそのことを結論としている、と読み取ることは困難ではあるが、私は書物を手にして一見すれば、そのことを解釈書物だ、とわかってしまう能力をもっている。要するに、まずは編目(目次)見て、大方の内容をしるものだ」と。ここに法然の読書論が語られていますが、やや自慢げなところが気になります。しかし、法然はまたいう、「私の性分として、たとえ大部の書物であっても、三回これを読めば、文章に精通し、意義が明らかになる」と。人の3倍の時間と労力を使われた上での発言だったのです。




    法然の主著は『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)であります。阿弥陀仏が選択された本願の念仏に関する経典や注釈書の要文を集めた書物という意味です。ここでのキーワードは「選択」で、選び捨て、選び取る、ことです。きわめて簡単に言えば、多くの選択肢から一つを選び、他を捨てることです。ここで重要なことは「選び捨てる」ことは、捨てるものの価値を全否定しないことなのです。選択する者の価値観に委ねるという態度なのです。もちろん法然にとって選択する者とは阿弥陀仏であり、価値観は修しやすさです。ここに称名念仏が選択される理由があったのです。こうした法然の考え方の柔軟さは、念仏以外の諸行の存在や、諸行を修する人を認めておりました。しかし、諸行では往生できないと主張します。ここが肝心です




    そこで、法然には諸行往生の考えがあったと見なす捉え方があります。それが晩年になって受けた念仏弾圧の原因と見なし、選択本願念仏説を対象化できなかったというのです。要するに、法然には諸行往生の思想があって、それが晩年になって受けた念仏弾圧の原因と見なしております。この考えには私は同意できません。この考え方は論者の頭の中で想定したもので、実際にあったものではありません。念仏弾圧の原因は、一部の念仏者の不法行為にあったのです。この点を強調しておきたく思います。








    松本清張氏の通史2は「空白の世紀」と題します。目次を見ますと、「1-謎の4世紀」から「10-階級・習俗」までの10章立ての構成であります。空白の世紀とは、西暦226年に倭王壱与が晋に使者を送って以来、421年に倭王讃が宋に朝貢するまで、中国の史書に倭国に関する記事が約150年間途絶えることを意味します。この間に東アジアにおける大変革を、松本氏は該博な知識でもって述べています。それが「2-南風をのぞむ」という文学諷のタイトルで記しており、歴史書らしかぬ表現もあります。




    日本列島における変革は、弥生文化からいわゆる前方後円墳に代表される古墳文化へと発展します。3世紀後半から7世紀までの古墳時代は前期・中期・後期に区分されますが、前期の副葬品が弥生時代の延長であるのに対し、中期になると墳丘規模が巨大化するとともに、副葬品として武具・馬具が多くなります。この違いに着目して、松本清張氏は江上波夫氏の「騎馬民族渡来」説を支持されます。なお、前方後円墳という呼称は、江戸後期に蒲生君平が名づけたもので、方形部を前、円形部を後ろとする根拠はなく、松本氏は方円墳と呼ばれていますが、それでも時折、前方後円墳とも言っておられて、用語に混在が見受けられます。




    さて、江上氏の「騎馬民族渡来説ですが、「7-騎馬民族説」で詳論しています。松本氏は、江上説を踏まえて、次のようにまとめておられます。――南朝鮮地域は、魏志東夷伝にあるように、倭種がたくさん住んでいた。これらの倭種は北部九州の倭種とおなじで、朝鮮海峡をへだてていても、生活圏は一帯であった。4世紀ごろ、馬韓の地に北から騎馬民族の扶余が入り、土着民を統一して百済を建国し、それより遅れて辰韓に入った扶余族も新羅を建国した。弁韓にも扶余族が入って倭・韓の土着民を統括したが、そこでは建国せずに、日本列島に移って畿内で政権を立てた――と。




    江上氏は北方アジアの遊牧・騎馬民族(扶余族)の日本への渡来を二度の波としてとらえられている。第1波は4世紀前半にきて、筑紫地方で政権を打ち立てました。記紀では崇神天皇を呼ばれている人物であります。そして第2波は4世紀後半から5世紀初めにかけて筑紫より畿内に入った。記紀では応神天皇に当たるといいます。この第2波が神武天皇の東征説話に反映していると言います。




    江上説に対して、文献史学の泰斗・井上光貞氏は、崇神天皇を海をこえて渡ってきた征服者とみた場合、記紀が伝える崇神天皇の事績と人物像に一致しないと反論しています。また松本氏は、扶余族は北部九州に約100年ほどいたことになっておるが、その足跡が一つもないと批判されています。海峡をわたってきた外来者が、北部九州に落ち着かないで、そのまま瀬戸内海を東に航行し河内に上陸し、ついで大和に入ったと推測されています。なお、松本氏は第2波に代表される渡来者を仁徳天皇に比定することは容認されていますが、しかし、「河内王朝」の存在は認めておられません。




    「9―大和の「任那」」に、これまでの歴史の教科書をひっくりかえすような見解が述べられます。方円墳が山陵とよばれるにふさわしいほどの巨大なのは、これを遠くから見せるために作られたからであります。現代のように航空写真で鳥瞰するわけにはいけません。円形と方形が連結した横に長い形を――ヒョウタンを縦に切って横に置いたような形――瓢塚(ひさごづか)の名がつけられているような、ならび丘のような形こそが、遠くから見せる形であったといいます。現在「側面」だと思われているところが、人びとに見せる「正面」であったのです。




    『清張通史2]には、これら以外に創見にあふれています。私の率直な感想を述べさせていただくなら、『通史1』での〈ワクワク〉感はなく、松本氏の知見が充満した〈そんなこともあったのか〉という感じが残りました。よほど松本史観が好みの方しか耐えられない「玄人」向きの通史であるということです。











    これまでは人生最後の著述になると思われる本(『鎌倉浄土教の先駆者 法然』)にとりかかっておりましたので、ブログも更新できずに一か月がたちました。この間、わたくしが所属している「浄土宗」では宗議会議員の改選がありました。「浄土宗」では国の機関をまねて、行政・立法・司法の三権分立の形をとっています。その立法府の4年任期の議員改選が行なわれて、このほど行政府の長たる「宗務総長」の改選が新議員によって行われました。




    ここまでは「浄土宗」も現代的な手続きを取る団体であることがわかります。ところが内実はとても「現代的」とはいえないのです。まず第一に宗務総長候補者は議員15名の推薦を要します。議員定数70名ですので、4名以上の候補者を立てることができないのです。宗務総長候補者の推薦議員の数を10名以下に抑える必要がると思われます。 つぎに前の総長は2期8年をつとめましたが、3期以上つとめた人はいないという「前例」にしたがって、続投を「やめさせらた」ようです。ご本人に聞いていないので分かりませんが、前例主義にしたがって続投できないのは「現代的」ではありません。もっとも前宗務総長は「やり手」なので、8年の任期でもうんざりした人はいるでしょう。新宗務総長は人柄よろしく、対立候補に圧倒的な差をつけて当選しました。前宗務総長の内局(国でいう「内閣」に当たります)の一員でありましたから、行政的には前任者の路線を踏襲するものと予測されますが、新鮮味を期待したく思います。願わくは前宗務総長の「院政」がおこなわれないことを祈っております。




    新聞報道などで、「浄土宗(総本山知恩院)ではこのほど」云々という書き出しで始まる記事にお目にかかったかと存じます。読者の方はなんらの違和感をもたれないでしょうが、われら寺院にすむ者にとって、異質のものをつなぎわせた感がします。知恩院という宗教団体と浄土宗という宗教団体とは、別個の存在なのです。われら浄土宗に属する寺院は「浄土宗」との間で、「浄土宗」を包括団体、浄土宗寺院を被包括団体とする、包括・被包括の関係を結んでおります。しかし、支配・被支配の関係にはありません。知恩院もまた被包括団体の一つなのです。ただ一般の浄土宗寺院とは異なって、総本山という特別の地位と役割を与えられていることです。そして浄土宗のトップの僧を「浄土門主」といい、知恩院のトップの僧を「知恩院門跡」といい、一人が兼ねることです。知恩院もまた行政と立法の機関をもち、行政の責任者を執事長といいます。知恩院の執事長は、浄土宗の宗務総長とは別人であります。




    ところで、われら浄土宗寺院には毎年、課金(国でいう税金)が課せられます。その送付先は包括団体たる浄土宗であって、総本山たる知恩院ではありません。しかしながら、毎年浄土宗に納める課金は檀家総代などが檀家から集めた浄財でありますが、住職はこの課金を知恩院に納めているものと説明をしないと、檀家はまったく理解のしようがありません。それは浄土宗という包括団体を的確に説明できないからだと思います。私などは浄土宗という団体は「同業者による組合ないし協会みたいな存在」だと説明します。するとなぜ総本山のほかに、一般の浄土宗寺院を包括する団体がなぜ必要なのか、と問い返されます。そこで話は窮します。私が思うに、包括関係は支配関係ではありません。「浄土宗」という緩やかな纏まりにすぎません。この際、新しく議員になられた方、宗務総長に選ばれた方、ここのところをよく心していただきたいものです。

















    私はもと大学の教授でありましたから、いちおう講演の依頼がときたまあって、人さまの前で、なにがしかのテーマでお話しする機会がございました。講演をした後で「何かご質問はございませんか」と尋ねますと、講演の主題からそれた質問を受けることがありました。たとえば行基の社会事業のことを話した後に、「仏教の伝来の年次に538年説と552年説があるようですが、先生は何年説をお考えですか」と言う具合の質問です。一瞬戸惑いを覚えますが、そこは売れっ子教授でない悲しさで、真剣に「今の学界では……」とこたえることになります。

    法然上人も法門談義のとき、このような経験をされたにちがいないかと思います。ある聴聞の人から、巻物になっているお経を折れ本のように畳み込むのは罪となるのでしょうか、という質問でありました。法然上人は、罪を得ることはないと答えられましたが、念仏のことならともかく、予期せぬ意外な問いに苦笑されたに違いあいません。

    法然上人に浄土の教えを求めた人びとのなかには、仏教信仰に関わる素朴な質問をしております。「一百四十五箇条問答」とよばれる法語がそうです(『和語灯録』巻5)。当時の神仏信仰における忌(い)みのありさまが知られる文献として、民俗学の立場から注目されてきました。しかし、法然上人の伝記を研究する上でも、この法語は面白いのです。

    この法語の発問者について、これまで「堂上方(とうしょうがた=公卿ら)の女房達」と推測しておりました(『和語灯録日講私記』第5)。「月のはばかりの時、経読み候はいかが」という女性特有の問いもあり、「女房」「妻」「あま法師」などの言葉が出てくるので、女房や尼たちと見てさしつかえないでしょう。しかし、「さけのむは、つみにて候か」のごときは、男性が問うているともか考えられます。いずれにしろ、発問者は僧俗・男女が入り混じっていると思われます。

    「一百四十五箇条問答」は、法然上人に直接お目にかかり口頭で尋ねたもの、手紙を差し上げて返事をいただいたもの、また内容が重複するものがあって、折々の機会になされたごく短い145個の法門の問答を集めております。法然上人の伝記の白眉と称せられる『勅修御伝』(正しくは『法然上人行状絵図』)にも、わずか19条だけであるが引かれています。『勅修御伝』では、ある人が独りで尋ねたことになっていますが、先述したごとく複数の人が尋ねた問答集と考えられるので、ここは『勅修御伝』の勇み足でしょう。『勅修御伝』と『和語灯録』の古版本と比較すると、用字の異同はともかく、文章がまったく変わらないので、『勅修御伝』は原典をかなり正確に引用していることが判明します。一般に『勅修御伝』と呼ばれて、宗派で最も権威ある伝記として尊ばれることへの嫌悪感から、史料的価値を低めるがごとき論議がなされるとすれば、それは見当違いだと言わざるを得ません。

    ところで、法然上人が提唱された専修(せんじゅ)念仏は次第に世人に受け入れられていったが、問題はその実践方法でありました。この法語には、「日所作」(にっしょさ・毎日の日課)としての「数遍(すへん・辺数)に関する問答が収められています。』法然上人は、毎日となえる念仏の数を定めなくても構わないが、怠る恐れがあるので数を定めるのがよいと答えられています。それではどれほどの数でしょうか。上人の答えは、1万辺から2万・3万・5万・6万ないし10万辺まで、自身の心に任せて自由になさい、というのでありました。

    そこで、「毎日の所作に、六万・十万の数遍を、ずずをくりて申し候はんと、二万・三万をずずをたしかに一つづつ申し候はんと、いずれがよく候べき」という質問がでたのです。この質問は少し言葉足らずであって、補足して解説しますと、数珠を早く繰りながら、急いで6万・10万辺となえるのと、数珠をゆっくり繰り、一辺一辺を丁寧に2万・3万辺となえるのとでは、どちらか正しいのかと尋ねているのです。

    つまり念仏をとなえるのに、「数」を追求するのか、「質」を追求するのか、という疑問なのです。凡夫は念仏の数は多い方がよいと考えがちです。だが、日に6万・10万辺となれば、よほど早口にとなえねばならず、如法(教えの規則にかなう)な念仏は難しいのです。一方、数が2万・3万辺と少なければ、如法な念仏がとなえられます。如法(「質」)の2万・3万と不如法(「量」)の6万・10万と、どちらがよいのか、まじめな念仏者は迷うだけです。

    法然上人は、「凡夫の習い、二万・三万を宛つというとも、如法にはかないがたからん。ただ数遍の多いからんには過ぐべからず。名号を相続せんためなり」と答えられております。日課の念仏は、称名を継続することに意義があって、一日に何辺の念仏をとなえるかを定めることは、平生の怠りをふせぐためだと、上人は説かれています。

    問答の趣旨を別の観点に移しますと、読書論になりましょうか。速読(「量」)か、精読([質」)か、多読か、選読か。ほかにも例示できると思いますが、要はその人にとって、継続できる方法が最適なのでしょう。

     

     

     

     



    法然は、久安6年(1150)18歳のとき、比叡山の西塔(さいとう)黒谷に隠棲し、慈眼房(じげんぼう)叡空の弟子となりました。叡空が治承3年(1179)に亡くなるまで、約30年間、法然は叡空に師事していたことになります。この間、師弟はつねに激しい問答を交わしております。よく知られた問答は。戒体論と観称優劣論であります。

    戒体論とは、戒を持(たも)とうとする働きを起こさせる実体は何か、という議論です。師の叡空は「心」だといい、法然は「性無作(しょうむさ)の仮色(けしき)」だと言います。「心」とするのはよく分かりますが、「性無作の仮色」とは何のことかさっぱり分かりません。まずもって読み方からして現代人には通じません。だから仏教用語には閉口しますが、「性無作の仮色」とは生まれながらにもつ身体のことです。法然は「身体」説だったのです。戒体論については、古来より諸師の見解はさまざまで、一概には言えませんが、天台宗の開祖・智者大師が「性無作の仮色」説を取っているから、法然の主張は正しいのです。「立破(主張と反論)再三」に及び、問答多時」にわたったとき、叡空は腹を立て、木枕をもって法然を打ったので、法然はその場を去ったといいます。叡空は、熟慮すること数刻の後、法然の部屋に来て、率直に法然の説を認め、法然に弟子の礼をとりました。師弟の関係が逆さまになったのです。伝記作者は、これを「仏法にわたくしなきこと」と称賛しております。

    往生の行(ぎょう)として観仏(仏の様相や功徳を想念し観察すること)と称名(仏のみ名を称えること)のいずれが優れ、いずれが劣るのか、という観称優劣論では、法然は称名が優れていると主張し、叡空は観仏の方が優れていると力説しました。法然は称名が阿弥陀仏の本願の行であることを論拠にし、叡空はその師・良忍も観仏が優れていると言っていたと強弁するのです。法然が「良忍上人も私どもより先に生まれておられたにすぎませんが……」と反論するや、叡空は腹を立てたます。法然は「唐の善導大師も『観経疏』のなかで、「称名」がすぐれた行であると述べられております。聖教(しょうぎょう・仏教典籍)をよくよくご覧にならないで……」と言ったとあります。叡空は腹立ちまぎれに拳で法然の背中をたたいたとか、沓脱(くつぬぎ)におりて下駄をもって法然をたたいたとか、伝記によって異なった書き方をしておりますす。

    『法然上人行状絵図』という浄土宗では最も権威あり伝記として重用されるのによると、「建仁二年(1202)三月十六日、法然はつぎのように話した」という書き出しで、「慈眼房(叡空)は受戒の師範なるうえ、同宿して衣食の二事、一向(ひたすら)この聖(ひじり)の扶持(ふち)なりき。しかして法門をことごとく習いたる事はなし。法門の義は、水火のごとく相違して、常に論談せしなり」と述懐しています。法然の述懐は「あるとき」と年月を明らかにしない場合が通例ですが、珍しく建仁2年3月16日と日付まで記しています。先行する伝記に該当する記事がないので、史料的に問題がないわけではありません。しかし、師の叡空には同宿の上、衣食まで扶養してもらったが、仏法に関してはすべてを習ったことはなく、考え方は水と火のように違い、いつも論争していた、という箇所は問題ないと思われます。

    叡空は気短で、論破する法然に暴力をふるっています。法然はそうした叡空にあきれて去ったわけでなく、また叡空もたてつく法然を破門したわけではありません。それでいてつねに水火のごとく論争する、何とも不思議な関係の師弟でありました。

    私はそうした師弟間の論争を好ましく思いますし、また法然の考え方に学びたいのです。観称優劣論矣おいて、叡空が師説に立論したことに、先に生まれた人の説が必ずしも正しいとは限らない、と肩をすかしました。法然は「凡(およそ)は後学畏(おそる)べしといいて、学生(がくしょう・学匠に同じ)はかならずしも先達なればということはなきなり」とも述べております。先達の見解といえども、絶対に正しいわけではないから、学問に志すものは、批判し反論しなければならないのです。先説は必ず後進の学者によってやぶられるものです。だから後学畏るべしなのです。後輩格の研究者や教え子から論破されても悲しがらず、むしろ喜ぶべきでしょう。