天平文化の精華である東大寺と国分寺は、聖武天皇の発願で建てられましたが、奈良時代の正史の『続日本紀』には、「東大寺及び天下の国分寺を創建せるは、もと大后の勧むる所なり」と記し、光明皇后が聖武天皇に勧めた事業であったというのです。シルクドーロの終着点と称賛される正倉院宝物が今日に残されたのは、光明皇后が聖武天皇の遺愛品をまとめて東大寺のルシャナブツに奉納したからであります。このように光明『皇后は、日本の文化史に果たした功績は燦然(さんぜん)と輝いていますが、聖武天皇の皇后に立つに至るには、かなりの政治的ないきさつがありました。以下にそのことを述べたいと思います。
神亀6年(727)2月に起きた長屋王の変から4か月後の6月、甲羅に「天王貴平知百年」という文字が書かれた亀が平城京の左京に現れました。天王(天皇)は尊く、その平安な治世は百年に及ぶだろうという意味であったので、朝廷はこれを祥瑞として、8月に天平と年号を改めています。そして夫人藤原安宿媛(あすかべひめ)を皇后に立てました。このときの宣命(せんみょう)はかなり長いので、まとめると次の6点になります。
1、天皇である私が皇位についてより、今年に至るまで6年になる。この間、皇位を継ぐべき者として皇太子がいた。これにより皇太子の母である藤原夫人を皇后に定める。
2、天皇である私の身にも年月が積もってきた。天下の君主として長く皇后がいないのも、一つの良くないことである。
3、天下の政(まつりごと)にあっては私一人が知るべきものではなく、必ず「しりへの政」があるべきだ。
4、その立后が即位後6年も遅れたのは、慎重に選び定め、試みてきたからである。
5、元明天皇がこの皇后を私に賜った時、彼女の父である藤原不比等(ふひと)の功績をかんがみて、彼女に過ちがなく罪がなければ、彼女を捨て忘れてはならないと仰せられた。
6、このようなことは、仁徳天皇が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘、磐之媛(いわのひめ)を皇后にたてて、天下の政をお治めになった先例がある。
この光明皇后を冊立(さくりつ)した宣命は、じつに言い訳がましい感じがします。皇后がいないのも一つのよくないことで、天下の政にあっては天皇だけが知るべきものではなく、かならず「しりへの政」があるべきものだと、皇后の必要性を説くのです。はるか昔の仁徳天皇の皇后磐之媛を例に引くのは、皇族でなければ皇后に立てないとする昔からの慣習があって、安宿媛の立后がまさしく異例中の異例であったことを物語っています。
藤原不比等の娘である安宿媛は、霊亀2年(716)、首(おびと)皇子の(聖武天皇の幼名)の立太子と同時にその妃(きさき)となりました。藤原不比等は、文武(もんむ)天皇の夫人に姉の宮子を入れ、さらに宮子が生んだ首皇子の妃に妹の安宿媛を入れて、天皇家との外戚関係を重ねようとしたのです。かつて蘇我氏が天皇家との外戚となることで権力基盤を築いたように、藤原氏もまた天皇家とのミウチ関係を固める心積りをしていたのです。
神亀元年(724)首皇子が即位して聖武天皇となり、神亀4年(727)閏(うるう)9月に安宿媛が皇子(名前は不詳)を生みました。この皇子の誕生は、不比等の死後、沈滞期にあった藤原氏にとって、次期天皇の外戚となる可能性をもたらすだけに、朗報であったにちがいありません。生後間もないこの皇子を11月に皇太子に定めているのです。ところが翌年の神亀5年(728)9月に、満一歳を迎えずに亡くなりました。とりわけこの年に夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が聖武天皇との間に安積(あさか)親王を生んでいました。それだけに暗澹(あんたん)たる思いであったに違いありません。
明くる年の神亀6年(729)2月、左大臣の長屋王が密かに邪道を学び謀反を企てているとの密告がありました。この事件は後に讒言(ざんげん)であったことが判明しておりますが、密告をうけて長屋王の邸宅を取り囲み、糾問したのが藤原武智麻呂・宇合の兄弟、政変の後に政権を握ったのが藤原武智麻呂らであったので、従来から言われているように、藤原氏の陰謀であったと考えざるを得ないのであります。
くわしい考証は省きますが、長屋王は、当時の皇族では最も尊貴な位置にいたのであります。聖武天皇や後見の元正太上天皇にとって、長屋王の存在自体が当人の意識と関係なく、不気味に感ぜられたに違いありません。密告にいう邪道とは呪詛(じゅそ)のことで、聖武天皇の皇太子の夭逝(ようせい)は長屋王の呪詛ではないかと、誰かが天皇や太上天皇にささやけば、容易に信じ込まれたと思われます。
くわしい考証は省きますが、長屋王は、当時の皇族では最も尊貴な位置にいたのであります。聖武天皇や後見の元正太上天皇にとって、長屋王の存在自体が当人の意識と関係なく、不気味に感ぜられたに違いありません。密告にいう邪道とは呪詛(じゅそ)のことで、聖武天皇の皇太子の夭逝(ようせい)は(ようせい)長屋王の呪詛ではないかと、誰かが天皇や太上天皇にささやけば、容易に信じ込まれたと思われます。
こうした政治的背景のもとに、光明皇后の冊立が強行されたのです。藤原氏が立后を意図したのは、当時の皇后の地位が6世紀来の伝統として、皇太子と同等の執政権をもち、また皇位継承の資格を持っていたので、安宿媛の生んだ皇太子が亡くなり、一方で安積親王の立太子が十分に予測されるときに、天皇に代わって執政権をもつ、場合によっては即位の可能性をもつ皇后の地位に安宿媛をつけようと図ったと考えられてきました。しかし、藤原氏が「光明女帝」を描いていたかは、即断できないのです。これまで皇族以外の女性が女帝になったケースはまったくなく、「光明女帝」は到底実現の可能性をもっていたとは考えられず、皇后という地位そのものにつけるのが目的であったと思われるのです。
そこで先の立后の宣命を分析しますと、1、が主文で、2、以下が理由を述べております。2、3、に天皇と皇后が相並んで天下の政を取るべきだと皇后の必要性を説き、6、に先例を求めております。4、5、はあまり重要ではありません。要するに、皇后は皇族にかぎるという根強い慣習があって、それを超えるための理由づけに腐心しております。
律令制下では、天皇の妻に、皇后・妃(ひ)・夫人・嬪(ひん)の区別がありました。皇后は「天子の嫡妻(ちゃくさい)」とされ、「妃」は二人、四品(ほん)以上、「夫人」は三人、三位以上、「嬪」は四人、五位以上、と規定されています。皇后については特に規定はないのですが、妃を四品以上の内親王とする規定から推せば、その上位にある皇后も内親王(皇女)から選ばれることを前提にしたと解釈されています。仁徳天皇の皇后磐之媛から天武天皇の皇后鵜野讃良皇女(うののさららのこうじょ)まで、いずれも皇女または皇族でありました。
そこで、観点をかえて、宣命の1、において、皇太子の母である藤原夫人を皇后に定めるというものの、しかしその皇太子はすでに薨去していたのです。ここに補足の理由に挙げた3、の「天下の政におきて、独り知るべき物に有らず、必ずしりへの政は有るべし」という文言が注目されます。「しりへ」とは後方という意味です。本居宣長は「しりへの政」を後宮の管理ないし統括と解釈しています。天皇と皇后を陰陽・内外のごとく、パラレルな関係に置いているのです。
安宿媛が生んだ皇子が夭逝し、安積親王が聖武天皇のただ一人の皇子であってみれば、新しく皇太子に立てられることが予測されました。それは藤原氏にとって避けたい事態だったのです。そこで安宿媛の天皇の嫡妻たる地位を法制的に不動のものとするために皇后に冊立し、その皇后が生むであろう皇子を、年長の安積親王を差し置いて皇太子に立てることができる、と判断したのではないでしょうか。ここに藤原氏にとって光明立后の意義があったと思われます。