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  • 私は先に松本清張氏の清張通史2を取り上げました。松本氏は、「空白の世紀」と呼んでいました。松本氏によれば、「空白」とは、中国の記録に見えない期間を指しております。すなわち邪馬台国の壱与が晋王朝に遣使したのが泰始の始め(西暦265)、倭の五王の讃が宋王朝に遣使するのが永初二年(421)、この間を指します。ところがわが国の古記録によれば、「謎の世紀」はもう少し縮めることができます。邪馬台国の壱与の遣使は疑いのない事実であります。しかし、倭の五王時代を待たなくとも、「謎の世紀」は短縮できそうであります。




    『日本書紀』の神功皇后の対朝鮮の外交記事は、百済の史料によっております。その神功皇后5年条に、新羅王が遣使して、その人質を返されんことを請うてきましたので、神功皇后は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)をそえて返さんとし、その途中に、新羅の使者があざむいて、人質を本国に連れ去ったので、襲津彦は怒って新羅の草羅城(そうらじょう)を破って帰ったとあります。この襲津彦の話しが大和朝廷の動きを記した最も古い記録だと思われます。原拠になった百済の史料は、この年の干支(かんし)乙酉(いつゆう)だけを記していたと考えられます。それを神功皇后5年に当てるとき、干支2運(120年)古くして西暦205年としてしまったのです。したがって実年代を求めるならば、西暦325年ということになります。




    この265年から325年までの60年の間に、邪馬台国から大和朝廷への転換があったのです。まさしく「謎の世紀」であります。葛城襲津彦のことが再び現れる神功皇后62年(262)条の方に蓋然性があるとするなら、これまた干支2運遡らせるなら、382年のこととなろう。これなら「謎の世紀」は117年に及びます。いずれにしろ約100年、まさしく3世紀後半から4世紀末にかけてのころが、「謎の世紀」となります。




    ここで、邪馬台国・大和朝廷同一説と別個説とに分かれます。つまり邪馬台国が大和朝廷になったと見るのか、邪馬台国が「滅び」て、新たに大和朝廷が起ったと見るのか、の違いです。後者の場合は、邪馬台国の位置論にもかかわってきます。私は、邪馬台国九州説に立ちながら、大和朝廷別個説に同調しますので、問題は一層複雑であります。文献では解決できないので、考古学的知見でしか解決できないと考えられます。「謎の世紀」と呼ぶ時代は、古墳時代の始まりであります。現在、最も古い古墳は、奈良県の箸墓(はしはか)古墳と考えられています。そうなれば箸墓古墳に代表される政治権力の主体は、畿内に発祥した大和朝廷ということになりそうです。




    随分とややこしいことを述べましたが、九州の邪馬台国は壱与のあとに滅んで、同じころ代わって畿内において大和朝廷が興起したと考えられることであります。これが今のところ、「謎の世紀」に関する私見であります。