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    最近、私は新聞紙等の読書欄で取り上げていたものを、実際に読んでみてみようと思うようになりました。それが黒木登志夫氏の『新型コロナの科学』であります。本の内容は、帯封に書かれているものを掲げるのが便利です。京都大学ips細胞研究所所長山中伸弥氏の「新型コロナ解析の集大成。感染症やウイルスの基礎知識に加え、各国の対策、研究開発の状況、そして今後への提言と、膨大な情報がわかりやすくまとめられている」という推薦の言葉が巻頭にのべられています。私は文系の研究者であるだけに、日ごろは何とも思わないのですが、内容的に言って、この本は、横組みの新書版であるべきです。横組みの新書版があるかは知りませんが、とにかく本書は横組みの理系の本であるべきだと思われます。




    さて本書は、帯封によりますと、「どこから来たのか、何者か、これから何が起こるのか」を述べた後に、「未曾有のパンデミックはなぜ起きたか――。世界を一変させた新型コロナウイルス。本書は、治療薬やワクチン開発を含む研究の最前線を紹介。膨大な資料からその正体を探る」と述べておられます。内容は、序章「人類はパンデミックから生き残った」、第1章「新型コロナウイルスについて知る」、第2章「新型コロナ感染症を知る」、第3章「感染を数字で考える」、第4章「すべては武漢から始まった」、第5章「そして、パンデミックになった」、第6章「日本の新型コロナ」、第7章「日本はいかに対応したか」、第8章「世界はいかに対応したか」、第9章「新型コロナを診断する」、第10章「新型コロナを治療する」、第11章「新型コロナ感染を予防する」、第12章「新型コロナと戦う医療現場」、第13章「そして共生の未来へ」という章構成になっています。各章には適切な図表が2~3個が添えられており、しかも著者の作図になろものが多くあります。まさしく理系の著者が書かれた今日的な課題の啓蒙書であります。




    そこで、私なりに気付いた点を摘記したく思います。スペイン風邪の流行っていたころの、ワクチンも治療薬もなかった時代にれた対策は、マスクの着用、うがい、室内の換気、患者の隔離、大勢の集まる所への出入りの自粛など、コロナ時代の今、我々が気を付けることと、100年前とほとんど変わらないのであります。違うのはうがい、仁丹の代わりに手洗いが奨励されていることだと言われております。まさしく言いえて妙なる表現であります。




    こういった表現は枚挙にいとまないほど出てまいります。ここに著者の黒木氏が科学者であると同時に優れた文学者であることを証しております。ただ惜しむらくは、引用豊富な文献類を原語を以て記されているために、一々縦組みの表現を横組みになおして読まねばならず、不便極まりないことになりましょう。冒頭に縦組み・横組み云々と論じたゆえんがあるのです。そこで原語表記を尊重する場合、索引があればよかったと思う次第であります。




    ところで、新型コロナウイルスにはSARSとかMARSがワル3兄弟としており、SARSがはやっていたころのWHOの西大西洋地域の事務局長であったのが、今日わが国の新型コロナ対策を指揮する尾身茂氏と押谷仁氏であることに、運命の奇妙さを感じ取ります。この新型コロナウイルスの起源に関する著者の見解は、新型コロナウイルスが、こうもり由来のものであること、こうもりのコロナウイルスが直接人にうつった可能性は低く、いくつかの動物を経た可能性が高いこと、武漢の海鮮市場が感染拡大のクラスターになったことは確かだが、海鮮市場の動物から感染が始まった可能性は低いことなどを指摘されています。




    そして、終章において、「新型コロナウイルスは、われわれと共生の道を選んだのだ。パンデミックは繰り返す。これまでもそうであったように、今回もそうであったように、それが一つの自然の摂理であるが故に、そして人間の思い上がりと、愚かさの故に、繰り返し起こるであろう」という一文をもって結んでおられます。無駄のない文章からはとても理系の方の著述とは思えないほどの理路整然としております。




    ところで、日本経済新聞の今年(2021年)3月9日の新聞に、コロナは科学が救う 政治はどうか」という見出しが躍って、「パンデミック一年、世界の課題は 歴史学者ハラリ氏寄稿」が掲載されていました。論調は政治的よりも科学の力で解決すべきだということです。このⅠ年で学んだことの、次の3点は誰も異存はないというのです。すなわち第1はデジタルインフラは守らねばならないこと、第2に各国は公衆衛生体制にもっと資金を投入すべきこと、第3にはパンデミックスを監視し阻止する強力な国際システムを構築することを挙げておられるのです。このイスラエルの歴史学者ハラリ氏の透徹した歴史眼に驚きます。




    以上、簡単な紹介記事で申し訳ありませんが、新型コロナウイルスをめぐる新書版と新聞記事を取り上げました。


    天平文化の精華である東大寺と国分寺は、聖武天皇の発願で建てられましたが、奈良時代の正史の『続日本紀』には、「東大寺及び天下の国分寺を創建せるは、もと大后の勧むる所なり」と記し、光明皇后が聖武天皇に勧めた事業であったというのです。シルクドーロの終着点と称賛される正倉院宝物が今日に残されたのは、光明皇后が聖武天皇の遺愛品をまとめて東大寺のルシャナブツに奉納したからであります。このように光明『皇后は、日本の文化史に果たした功績は燦然(さんぜん)と輝いていますが、聖武天皇の皇后に立つに至るには、かなりの政治的ないきさつがありました。以下にそのことを述べたいと思います。




    神亀6年(727)2月に起きた長屋王の変から4か月後の6月、甲羅に「天王貴平知百年」という文字が書かれた亀が平城京の左京に現れました。天王(天皇)は尊く、その平安な治世は百年に及ぶだろうという意味であったので、朝廷はこれを祥瑞として、8月に天平と年号を改めています。そして夫人藤原安宿媛(あすかべひめ)を皇后に立てました。このときの宣命(せんみょう)はかなり長いので、まとめると次の6点になります。




    1、天皇である私が皇位についてより、今年に至るまで6年になる。この間、皇位を継ぐべき者として皇太子がいた。これにより皇太子の母である藤原夫人を皇后に定める。




    2、天皇である私の身にも年月が積もってきた。天下の君主として長く皇后がいないのも、一つの良くないことである。




    3、天下の政(まつりごと)にあっては私一人が知るべきものではなく、必ず「しりへの政」があるべきだ。




    4、その立后が即位後6年も遅れたのは、慎重に選び定め、試みてきたからである。




    5、元明天皇がこの皇后を私に賜った時、彼女の父である藤原不比等(ふひと)の功績をかんがみて、彼女に過ちがなく罪がなければ、彼女を捨て忘れてはならないと仰せられた。




    6、このようなことは、仁徳天皇が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘、磐之媛(いわのひめ)を皇后にたてて、天下の政をお治めになった先例がある。




    この光明皇后を冊立(さくりつ)した宣命は、じつに言い訳がましい感じがします。皇后がいないのも一つのよくないことで、天下の政にあっては天皇だけが知るべきものではなく、かならず「しりへの政」があるべきものだと、皇后の必要性を説くのです。はるか昔の仁徳天皇の皇后磐之媛を例に引くのは、皇族でなければ皇后に立てないとする昔からの慣習があって、安宿媛の立后がまさしく異例中の異例であったことを物語っています。




    藤原不比等の娘である安宿媛は、霊亀2年(716)、首(おびと)皇子の(聖武天皇の幼名)の立太子と同時にその妃(きさき)となりました。藤原不比等は、文武(もんむ)天皇の夫人に姉の宮子を入れ、さらに宮子が生んだ首皇子の妃に妹の安宿媛を入れて、天皇家との外戚関係を重ねようとしたのです。かつて蘇我氏が天皇家との外戚となることで権力基盤を築いたように、藤原氏もまた天皇家とのミウチ関係を固める心積りをしていたのです。




    神亀元年(724)首皇子が即位して聖武天皇となり、神亀4年(727)閏(うるう)9月に安宿媛が皇子(名前は不詳)を生みました。この皇子の誕生は、不比等の死後、沈滞期にあった藤原氏にとって、次期天皇の外戚となる可能性をもたらすだけに、朗報であったにちがいありません。生後間もないこの皇子を11月に皇太子に定めているのです。ところが翌年の神亀5年(728)9月に、満一歳を迎えずに亡くなりました。とりわけこの年に夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が聖武天皇との間に安積(あさか)親王を生んでいました。それだけに暗澹(あんたん)たる思いであったに違いありません。




    明くる年の神亀6年(729)2月、左大臣の長屋王が密かに邪道を学び謀反を企てているとの密告がありました。この事件は後に讒言(ざんげん)であったことが判明しておりますが、密告をうけて長屋王の邸宅を取り囲み、糾問したのが藤原武智麻呂・宇合の兄弟、政変の後に政権を握ったのが藤原武智麻呂らであったので、従来から言われているように、藤原氏の陰謀であったと考えざるを得ないのであります。




    くわしい考証は省きますが、長屋王は、当時の皇族では最も尊貴な位置にいたのであります。聖武天皇や後見の元正太上天皇にとって、長屋王の存在自体が当人の意識と関係なく、不気味に感ぜられたに違いありません。密告にいう邪道とは呪詛(じゅそ)のことで、聖武天皇の皇太子の夭逝(ようせい)は長屋王の呪詛ではないかと、誰かが天皇や太上天皇にささやけば、容易に信じ込まれたと思われます。




    くわしい考証は省きますが、長屋王は、当時の皇族では最も尊貴な位置にいたのであります。聖武天皇や後見の元正太上天皇にとって、長屋王の存在自体が当人の意識と関係なく、不気味に感ぜられたに違いありません。密告にいう邪道とは呪詛(じゅそ)のことで、聖武天皇の皇太子の夭逝(ようせい)は(ようせい)長屋王の呪詛ではないかと、誰かが天皇や太上天皇にささやけば、容易に信じ込まれたと思われます。




    こうした政治的背景のもとに、光明皇后の冊立が強行されたのです。藤原氏が立后を意図したのは、当時の皇后の地位が6世紀来の伝統として、皇太子と同等の執政権をもち、また皇位継承の資格を持っていたので、安宿媛の生んだ皇太子が亡くなり、一方で安積親王の立太子が十分に予測されるときに、天皇に代わって執政権をもつ、場合によっては即位の可能性をもつ皇后の地位に安宿媛をつけようと図ったと考えられてきました。しかし、藤原氏が「光明女帝」を描いていたかは、即断できないのです。これまで皇族以外の女性が女帝になったケースはまったくなく、「光明女帝」は到底実現の可能性をもっていたとは考えられず、皇后という地位そのものにつけるのが目的であったと思われるのです。




    そこで先の立后の宣命を分析しますと、1、が主文で、2、以下が理由を述べております。2、3、に天皇と皇后が相並んで天下の政を取るべきだと皇后の必要性を説き、6、に先例を求めております。4、5、はあまり重要ではありません。要するに、皇后は皇族にかぎるという根強い慣習があって、それを超えるための理由づけに腐心しております。




    律令制下では、天皇の妻に、皇后・妃(ひ)・夫人・嬪(ひん)の区別がありました。皇后は「天子の嫡妻(ちゃくさい)」とされ、「妃」は二人、四品(ほん)以上、「夫人」は三人、三位以上、「嬪」は四人、五位以上、と規定されています。皇后については特に規定はないのですが、妃を四品以上の内親王とする規定から推せば、その上位にある皇后も内親王(皇女)から選ばれることを前提にしたと解釈されています。仁徳天皇の皇后磐之媛から天武天皇の皇后鵜野讃良皇女(うののさららのこうじょ)まで、いずれも皇女または皇族でありました。




    そこで、観点をかえて、宣命の1、において、皇太子の母である藤原夫人を皇后に定めるというものの、しかしその皇太子はすでに薨去していたのです。ここに補足の理由に挙げた3、の「天下の政におきて、独り知るべき物に有らず、必ずしりへの政は有るべし」という文言が注目されます。「しりへ」とは後方という意味です。本居宣長は「しりへの政」を後宮の管理ないし統括と解釈しています。天皇と皇后を陰陽・内外のごとく、パラレルな関係に置いているのです。




    安宿媛が生んだ皇子が夭逝し、安積親王が聖武天皇のただ一人の皇子であってみれば、新しく皇太子に立てられることが予測されました。それは藤原氏にとって避けたい事態だったのです。そこで安宿媛の天皇の嫡妻たる地位を法制的に不動のものとするために皇后に冊立し、その皇后が生むであろう皇子を、年長の安積親王を差し置いて皇太子に立てることができる、と判断したのではないでしょうか。ここに藤原氏にとって光明立后の意義があったと思われます。





    私は先に松本清張氏の清張通史2を取り上げました。松本氏は、「空白の世紀」と呼んでいました。松本氏によれば、「空白」とは、中国の記録に見えない期間を指しております。すなわち邪馬台国の壱与が晋王朝に遣使したのが泰始の始め(西暦265)、倭の五王の讃が宋王朝に遣使するのが永初二年(421)、この間を指します。ところがわが国の古記録によれば、「謎の世紀」はもう少し縮めることができます。邪馬台国の壱与の遣使は疑いのない事実であります。しかし、倭の五王時代を待たなくとも、「謎の世紀」は短縮できそうであります。




    『日本書紀』の神功皇后の対朝鮮の外交記事は、百済の史料によっております。その神功皇后5年条に、新羅王が遣使して、その人質を返されんことを請うてきましたので、神功皇后は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)をそえて返さんとし、その途中に、新羅の使者があざむいて、人質を本国に連れ去ったので、襲津彦は怒って新羅の草羅城(そうらじょう)を破って帰ったとあります。この襲津彦の話しが大和朝廷の動きを記した最も古い記録だと思われます。原拠になった百済の史料は、この年の干支(かんし)乙酉(いつゆう)だけを記していたと考えられます。それを神功皇后5年に当てるとき、干支2運(120年)古くして西暦205年としてしまったのです。したがって実年代を求めるならば、西暦325年ということになります。




    この265年から325年までの60年の間に、邪馬台国から大和朝廷への転換があったのです。まさしく「謎の世紀」であります。葛城襲津彦のことが再び現れる神功皇后62年(262)条の方に蓋然性があるとするなら、これまた干支2運遡らせるなら、382年のこととなろう。これなら「謎の世紀」は117年に及びます。いずれにしろ約100年、まさしく3世紀後半から4世紀末にかけてのころが、「謎の世紀」となります。




    ここで、邪馬台国・大和朝廷同一説と別個説とに分かれます。つまり邪馬台国が大和朝廷になったと見るのか、邪馬台国が「滅び」て、新たに大和朝廷が起ったと見るのか、の違いです。後者の場合は、邪馬台国の位置論にもかかわってきます。私は、邪馬台国九州説に立ちながら、大和朝廷別個説に同調しますので、問題は一層複雑であります。文献では解決できないので、考古学的知見でしか解決できないと考えられます。「謎の世紀」と呼ぶ時代は、古墳時代の始まりであります。現在、最も古い古墳は、奈良県の箸墓(はしはか)古墳と考えられています。そうなれば箸墓古墳に代表される政治権力の主体は、畿内に発祥した大和朝廷ということになりそうです。




    随分とややこしいことを述べましたが、九州の邪馬台国は壱与のあとに滅んで、同じころ代わって畿内において大和朝廷が興起したと考えられることであります。これが今のところ、「謎の世紀」に関する私見であります。





    私は日本古代の仏教史や浄土宗史を専門とする学徒だから、いわゆる専門書をよく読みます。したがって、読書感想文を書くとしても、歴史の分野に限ります。ところが、私もたまには広告などを見て、手に取ることがあります。馬齢を重ねて、今年で77歳の私には、とても気になる本でしたので、早速取り寄せて一読いたしました。




    和田氏は著名な精神科医、よくこなれた文章で書かれており、示唆に富む内容であります。まず序章「人生百年と言うけれど」において、むのたけじ氏の言葉を借りて、「高齢者という言い方は、侮辱である。青少年は低齢者か」と政府を罵っていることを引用して、本書では「高年者」と表現します。高年者も高齢も同じ意味ではないかといういう意見に対して、近年の日本では、「高齢者という言葉には差別的な匂いが仄かに漂う」と言われています。この和田氏の見解に同意できそうであります。そして、60代と70代の特徴を挙げて、「60代では定年がメンタル面での大きな危機要因であったのに対して、70代では「死」が現実感をもって感受されるようになります」と、読者をしてどっきりさせます。「なお、何事にも例外はあり、同じ年代でも個人差はもちろんある」ことを指摘した上で、「本書はあくまでマジョリティ、多数を占める人々を対象にした一般論を述べていることを念頭に置いて読み進めてください」と、釘を刺しておられます。

    第2章「老化と病気」、第3章「心の整え方」、第4章「体の整え方」は、本書の著者が高年を専門とする精神科の医者であることを考えると、当然のことながら、読者から最も期待される箇所であります。このうち私が興味を惹かれた点を述べますと、「人は「心」から老化する」という節では、心の活躍を司るのは大脳であるとして、とりわけ最初に老化するのは前頭葉であると断言されます。記憶力が衰えたからといって、海馬が最初に萎縮するわけではなく、前頭葉の方が早く萎縮することを見つけられています。

    「高年になって多発する病気」という節では、仏教の「生老病死」という基本概念を引き、「老」と「病」と「死」は不即不離の関係にあると言われます。この見方は医者らしい解釈です。私は余り知らなかっのですが、「ピンピンコロリとネンネンコロリ」という節において、死ぬ直前まで元気でいて死ぬときは一瞬にといった願望ですが、ピンピンコロリの対語は、寝たきりが続いて死ぬことを意味する「ネンネンコロリ」だそうです。このネンネンコロリが寝たきりを指すのは、子守歌の「ねんねんおころり、おころりよ」からきていると思われます。ともあれ、言葉あそびの典型とでもいうべきでしょう。

    第3章「心の整え方」と第4章「体の整え方」は、和田氏の独壇上であり、鎌田實さんの考案された鎌田式簡単ストレッチを紹介されています。今の私などはつま先の上げ下げしかできませんが、続けて行こうと思っています。このほかに「酒と煙草という名の悪女」という節では、古来の哲学者の名言を引いて、適度の量の飲酒を勧めておられます。

    第5章「暮らしの中の知恵」では、なかなか面白い観点から読者をして、どひゃっとさせることを述べておられます。いくつかの節を紹介しましょう。「精神医療の目的は、一人ひとりの患者さんがいかに充実感を感じる毎日」を送ることができるか、その手助けをすることにつきる」と言われます。「お金は墓場までもっては行けない」「好色のすすめ」「モノに執着しない」「常にイキでカッコよく」「クスリと書いてリスクと読む」「健康診断は受けない」などの節は示唆に富んでいます。

    以上の事柄は私の読書感を述べすぎませんが、ある種の爽快感さえ覚えます。もし将来において、入院などをしなければならない時には、本書をもって行こうかとも思います。ベッドサイドに置いて何度も読みふけることでしょう。なお出版社はパジリコ株式会社です。


    日本学術会議の新会員6名を新政権が任命を拒みました。私は政治家ではありませんので、よくわかりませんが、政権側の言い分も筋が通っているように思えてきます。日本学術会議の新議員の選び方のも問題がないとは言えないからです。日本学術会議のホームぺージによりますと、約86万人の科学者の中から210人の会員が選ばれるとのことです。今回の任命はその半数の105人の改選に当たるようです。国の直属機関として、内閣総理大臣の任命をうけることになっております。




    私は若い時に、学術会議会員の選挙に一票を投じたことがあります。私はある学会のメンバーとして、「依頼」されて、わざわざ東京まで出かけて「投票」したことがあります。そのときから、すでに「党派性」がありました。今回の6人の所属学界は分かりませんが、私にはすでにある種の「党派性」が存在していたと考えられます。ときの政権に「反対」するような学界に所属していたように思えてなりません。




    前政権下でも問題視されていたようですが、人選に官邸が関与することを、「学問の自由」を脅かすような不遜な行為のように捉える節があるようですが、「学問の自由」のはき違えであります。「学問の自由」とは国家権力がその学問を否定することに対する言葉であります。国家の一組織としての学術会議議員たる身分に対して、その人選に任命権者が関与することは、当然あってしかるべきだと思います。




    新聞報道によると、2017年の交代会員を決めるときにも、人選にあたる官邸側と学術会議側との折衝があったようです。したがって今回の人選も前例の踏襲ということになり、新政権側の「勇み足」ではなかったことが分かります。ところが野党はこの件を政治化しようと目論でいます。私は特別国会で菅首相が衆議院を解散して、事の正否を国民に問えばよいとさえ思っております。必ずしも菅首相の非と取られることはないと思われます。