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    私が少壮の研究者だった時、たまたま相ついで地方史の編集委員となり、古代史や仏教史の部門を担当することがありました。分量はわずかでしたが、原稿を書くに当たり感じたことを、思い出しながらのべましょう。

    一つは『新修大坂市史』、もう一つは『栗東の歴史』。前者の大阪市史では、私の担当した部門は仏教史で、仏教の伝来から奈良時代までのことを扱い、400字詰め50枚があてがわれました。大阪では著名な四天王寺や戦後盛んに発掘された寺院跡に関することは、別の人が担当することになっていたので、かなり詳しく叙述することが可能でありました。古代の難波(なにわ)に関する文献はかなり豊富に残存しているために、自由に書けました。

    それでも、奈良時代の行基について述べる際に、難波における活動だけを取り上げただけなら、行基の活動の歴史的意義を正しく把握できないし、そうかといって行基の生涯をやたら詳しく書くわけにはいきません。叙述の対象が大阪市(古代の難波)を超えねばならない場合、それをいかに抑えるべきか、随分と迷いました。

    後者の栗東町史(当時は「市」への昇格が内定していたので、『栗東の歴史』という書名になったよしを聞きました)では、私が専攻する仏教史ではなく、政治・社会史を分担しました。律令時代の地方行政や租税制度に関することがらを扱い、400字詰め30枚があてがわれました。律令制度の概要を述べ、しかも奈良・平安初期の政治の動向にも言及するとなれば、与えられた枚数ではよほどの簡潔さが要求されました。

    律令の諸制度の叙述は平板に流れやすく、簡潔を旨とすれば、高校の教科書に近くなり、文章に留意しないと、難解な律令用語の羅列に終わってしまいます。第一、律令時代の近江(おうみ)国の、しかも栗太(くりた)郡の、またその栗東地域に断定できる文献なんか極めて少ないものを、さも奈良・平安初期の時代史はこの地域を中心に展開してきたごとくに、読者をし錯覚せしめるべく、わずかな紙数でかつ平易に書くのは、私には「難中転更難」(お経の言葉で、難しい中でもさらに難しいの意)でした。

    地方史の編纂や執筆に経験豊富な先生方にとって、私の所感などは取るに足らないことがらだったと思います。しかし、未熟さゆえに体験したことがらもあったでしょう。私が見聞した限りでいうと、地方史の編纂は、その地方の歴史に関する専門家と目される数人の大家(大抵の場合、著名な大学教授)が編纂委員となって、章・節の構成、叙述内容の選定などを行ない、章・節ごとに分担する執筆委員を委嘱し、数回の執筆者打合せの会合、あるいは史跡見学会を催されるのであります。やがて年度予算の執行、すなわち「締め切り」という矢の催促を受けて、ついに抗しきれず、あわただしく原稿を書き始めます。実際に筆をおろすと、関連する他の執筆者との調整が気になりつつも、時間切れのため、あとは編纂委員の添削作業に任せる仕儀となります。

    ところで、『日本の歴史』とか『講座・日本歴史』といった叢書(そうしょ)は、時代の流れに力点を置き、特定の課題を詳論しますが、政権の所在と社会経済の体制の変動を核にし、日本全体を視野に入れることを前提としております。これを一般史と名づけるなら、特定の地方に限定し、その地域の歴史を叙述した地方史は、一般史の特殊版または部分編に相当します。

    地方史はややもすれば、木を見て森を見ずの傾向にあり、ささいな事件を大げさに扱いがちです。郷土史家といわれる人たちが書く地方史にはこうした弊害がまま見られます。戦後の地方史の編纂委員や執筆委員に大学教員などの研究職についている人を委嘱するのは、ある種の権威づけもさることながら、一般史との関連で地方史を把握しようとする意図が強く働いているからだと思われます。

    しかしながら、地方史をもって一般史に代えることはできず、また地方史をいくら合成しても一般史にはなりません。一般史と地方史とは、歴史の縦糸と横糸の関係に当たるもので、がんらい視座を異にしております。どこの地方にもその地域の歴史に精通した郷土史家はいるもので、彼らは正規に歴史学を学んでいなくても、故郷の偉人の事績にくわしく、故郷の生んだ文化遺産に誇りをもております。彼らが書く地方史は、たとえ一般史の立場から見て、学術的にあまり評価できなくても、まじめに取上げておればよいのです。郷土を愛する心で貫かれた文章は、読者をして郷土の歴史に引き込んでいく。ここに地方史を読む楽しみがひそんでいます。

    今年(令和元年)もお盆には檀家さんの家にうかがって、お経をあげることになっています。もちろん私は体調を損ねているので、大半は副住職がお参りします。仏壇まわりの飾りをお盆向きに改める家は、京都の市中でも随分と少なくなりました。六道珍皇寺へお精霊(しょらい)さんを迎えに行く人も年ごとに減っているようです。京都だから古来の伝統的な慣習を多く残していると考えるのは、じつは単なる思い込みではないでしょうか。都市の民俗は、あるものは墨守される反面、他のものは廃れて継承されなくなるーー最近このように感じながら、江戸初期の京都の年中行事や民族を記した『日次記事』(ひなみきじ)を読みました。

    盂蘭盆会(うらぼんえ)について、7月1日条に、「今日より十五日に至るまで、俗に盂蘭盆という。また専ら盆と称す。諸寺院門前の樹頭、或いは別に柱を建てて、以て高く灯篭を懸く。毎夜灯火を点ず。これを上(あげ)灯籠と称す」と注記しています。いつごろ廃れたのか、私は寺院の門前に「上灯籠」をかかげるのを見たことはありません。お盆の月の京都は、夜は灯籠であふれていたらしく、ことにお盆本番の十三日から十五日にかけて、公家などから禁中に灯籠が献上されて、諸人がこれを見物しています。現在も京都御所でお盆に灯籠が設けられるのか、寡聞にして知りません。

    また月末の条に、「この月、朔日より十五日に至るまで、諸寺院に於て施餓鬼(せがき)の法事を修す。これを盂蘭盆会という」ともあります。お盆に施餓鬼の法要はつきものですが、現在、市中の浄土宗寺院では、お盆の施餓鬼を営んでおりません。

    また、14日条にも盂蘭盆会として、「今日より十六日に至るまで、人家棚を設け、各位の牌を安んじ、盂蘭盆会を修す。その式、飯器を公卿(くぎょう)の台・破子(わりご)・加牟奈加計(かむなかけ)に載せ、ならびに茶菓香華を供してこれを祭る。また鼠尾草(みそはぎ)を以て水を灌(すすぎ)てこれを拝す。これを水を向くるという。その家の宗門の僧徒、来りて経を誦す。これを棚経と称すなり」と注記しています。「公卿の台」とは三方(さんぼう)の台、「破子」とは円形の食器、「加牟奈加計」とは倍木(へぎ)を言います。いずれも白木で作った器台であります。今日のように塗りのお膳を使うことはなかったのです。「水向け」に使うお椀と禊萩(みそはぎ)の小枝さえ、置いてある家は、これまた少なくなりました。

    白木の造作物は一度きりの使い捨て。塗りの器物は毎年用。どちらが丁寧な用途になるのかは判然としています。毎年新たに作る白木の方が丁寧であることは一目瞭然です。生活文化は常に重厚から軽薄へ、丁寧から粗雑へと移っていきます。これを私は「文化のカジュアル化」と呼んで居ます。

    お盆の民俗が時代とともに変遷することは、嘆かわしいことではないと思います。上灯籠が点じられなくても、白木のヘギが朱塗りのお膳に変わろうとも、大した問題ではありません。祖霊を迎えて供養する気持ちのある事の方が肝心です。ところが、民俗を支える庶民の考えはどうでしょうか。

    月末の条に「この月、公武両家、各(おのおの)尊親を饗せらる。これを生身魂(いきみたま)という。或は生盆(いきぼん)と称す。地下(じげ)の良賤もまた然り」とあります。身分の上下を問わず、お盆の月は両親にご馳走してもてなし、これを「生身魂」あるいは「生盆」と言っていたのです。祖霊に飲食物を供えるのも、生きている両親をもてなすのも、ともに孝養の心のあらわれです。シニミタマ(死身の霊魂)に対して、イキミタマ(生身の霊魂)と称している点が面白い。貧しき農民が、死んでから供えてもらうより、生きている今に食わせてくれ、と叫んでいる悲痛な声が聞こえてきそうです。それをイキボンとよべば、死者のためのお盆というよりも、生者のためのお盆になってしまいます。

    信心うすい現代では、お盆は「お盆休み」と同義になっています。お盆前に、ある寡婦の檀家さんが「お盆は孫とディズニーランドに行きますので、和尚(おっ)さん、お寺で拝んどいとおくれやす」と棚経をことわってきました。死んだ亭主の精霊と一緒にいるよりも、かわいい孫とお盆休みを過ごす、これこそ生盆ではないでしょうか。今年もお盆休み明けの空港から排出されてくる人々の映像が映りだされますが、彼らは「生盆」の典型であります。しかし、「文化のカジュアル化」の度を越したただの遊民てもあります。

     

     

    前回に続けて、『国文東方佛教叢書』の文芸部に収める小品より、面白いものを紹介しましょう。

    「仏の顔も三度」に似たことばに「地蔵の面(つら)も三度」があります。

    「愚人は夏のむし飛んで火に入るごとし」「長者の万灯より貧者の一灯」。ともに出典はお経にありますが、どうかすると私どもは「愚人は夏のむし」「長者の万灯より」を省いて使うことが多いようです。

    同じくお経から一句。「初めは人酒を飲み、中頃は酒が酒を飲み、終わりには酒が人を飲む」。わたしのような愛飲家には耳が痛いことばです。

    「菩提は水に清(す)める月、手に取るにとられず、煩悩は家の犬、うてど門(かど)を去らぬ」。何となく悟りの境地を示しているようですね。

    川柳にも仏教的なものがあります。川柳とは俳句と同じく5・7・5の語で構成され、柄井(からい)川柳という人が創始した風刺句です。

    ただたのめとは物入りを思召(おぼしめ)し   これは浄土真宗の法談で、阿弥陀仏にただひたすらに頼めと強調するが、そのあとに物入り(出費)すなわち信者からの寄付をお考えのことだと皮肉っています。

    叱っては又ぽくぽくと木魚うち    これは木魚をうって念仏を唱えながら、その合間に子供などをを叱りつけ、また平然と木魚を打ち、念仏を唱えているさまを風刺しています。

    あらそへどみんな比叡から出た宗旨     これは日蓮宗と浄土宗の宗論を皮肉っています。当時は日蓮宗と浄土宗の宗論がよく行われていました。「宗旨論耳と首とにじゅずをかけ」は、宗論でとっつかみ合いの喧嘩をして、手にかけるべきじゅずが耳や首にかけて口泡をとばしているさまが目に浮かぶようです。「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」が有名です。

    尻へ手をあてて説法説きじまひ    これには和歌でいう「本歌」(典拠)があるようで、前回紹介した「百日の説法屁一つ」を前提にしていると思います。ありがたい説法が終わって、高座を下りる際に、屁を出さないように、尻に手をあてて、そっと降りるさまが滑稽です。

     

    『国文東方仏教叢書』という戦前に出版された叢書があります。編者は鷲尾順敬という当代一流の学者です。「国文」(日本文)で書かれた仏教書を集めておりまして、こ難しい教義書はもとより収録されていますが、「文芸」といった部類立てのもとに、仏教を主題にした「物語草子」「笑話」「落語」「今様」「謡曲」「狂言」などを収めています。

    なかでも面白いのは「俗謡」と「俗諺」です。まずここに紹介しようとするのは「俗諺」であります。「三人よれば文殊の知恵」「釈迦に説法」などは説明の必要のないほどよく知られており、こうしたことばを600も集めています。時々辞書と異なることばもあります。「しりくらい観音」は「しりくらいは観音」と出てきます。困った時には観音を念じ、楽になると「しりくらえ」とののしる所から、受けた恩を忘れてののしることを言います。こうした差異は実際にことばを集めた人の記憶の違いによるものと思われます。

    「見ぬが仏、知らぬが仏」という言葉があります。」見ぬが仏」は、見れば腹の立つことも、見なければ気にもならず、仏のように柔和な顔をしていられる、という意味です。「知らぬが仏」もよく似たことばで、知れば腹も立ち、苦悩や面倒もおこるが、知らないから腹も立たず、心の広い仏のようにしておられる。転じて当人だけが知らないで平気でいるさまをあざけって言う語です。ともに類句として「見ぬは極楽、知らぬは仏」があげられます。「見ぬは極楽」とは、不愉快なことでも見なければ極楽にいるように平気な気分でおられることです。

    つぎに面白い語句をあげると。「今はの念仏、誰でも唱える」があります。「今は」とは「今はのきわ」で、最期臨終の場面のことでです。平素は念仏なんてクソくらえで、信心のひとカケラもなかった人でも、死に際には念仏を唱えるものです。

    「百日の説法、屁(へ)一つ」。ありがたい説教も不用意にもらした屁一つで台無しになる。まじめに積み重ねてきた努力が、おもいがけない小さな失態のために、すっかり駄目になることのたとえです。

    ちょっと長くなりますが、「禅掃除、真言料理、門徒花、盛物法華、浄土じだらく」。これは仏教各宗派にみられう修行や供え物、また性格などの特色をいいあらわしています。禅宗は掃除を第一にし、真言宗の僧侶はお料理をよくし、門徒(浄土真宗)は仏前にそなえるお花を大事に考え、法華(日蓮宗)は同じく仏前の供物を重視しますが、浄土宗はなにかにつけて自堕落だというのです。浄土宗に関してはボロクソに言っていますが、一本すじが通っていないところを揶揄しています。ちなみにわが寺は浄土宗です(笑い)。

    つぎに「俗謡」を紹介します。地域的な民謡です。うたわれていた地域は前者は「信濃」(長野県)、後者は「越後」(新潟県)です。。

    〽山寺の和尚さんが、毬は蹴りたくも毬が無し。猫を三匹かん袋の中へ押し込んで、ぽんと蹴りや、にやんと泣く。ぽぽのぽんと蹴りや、にやにやのにやんと泣く。ぽんにやん、そこかい、ほいここに。

    〽開いた開いた、何の花開いた。蓮花の花開いた。開いたと思ったら、いつの間にかつぼんだつぼんだ。何の花つぼんだ。蓮花の花つぼんだ。つぼんだと思ったら、いつの間にか開いた。

    私が子供のころに姉が歌っていたのをかすかに記憶しています。あるいは小学校の唱歌で習ったのでしょうか、記憶にある歌詞も少し異なっていますが、みなさん方はかがでしょうか。

     

     

     

    律令制の税制といえば、みなさんもご承知の通り、租・庸・調・雑徭であります。これを稲の系列、物産の系列、力役の系列の三つに大別することができます。問題は力役の系列に属すべき「歳役」と称するもので、元来は年に10日間、都に出てきて労役に従うことですが、労役に服さないものは庸(布などの生産物)を納めることとされていました。実際は庸で納めさせましたので、庸は調と同じく物産の系列に属するものと理解されます。

    租は稲の生産比率でいうと3%程度の極めて低く、調と庸、すなわち物産の系列と、年間最長60日に及ぶ雑徭、とが過酷な税制であったようです。調・庸・雑徭は「課役」と称して、成年男子にしか課せられなかったのです。

    いまここで律令制の税制を詳しく論ずるつもりはありません。古代の税制は、成年男子を基礎にした、という側面を知ってほしかったのです。成年男子とは、17歳から20歳までを「中男」(ちゅうなん)、21歳から60歳までを「正丁」(せいてい)、61歳から65歳までを老丁(ろうてい)といって、課税対象年齢でありました。66歳以上を耆丁(きてい)といって、初めて非課税となるのです。

    もちろん17歳から65歳までが一律に課役がかかったのではありませえん。老壮の区別はあり、正丁を1とすれば、老丁はその2分の1、中男は4分の1という割合でした。古代の権力者は人民の労働力における負担能力をよく知っていたとみえて、60歳までを一人前に扱い、61歳からは半人前としたのです。そして66歳以上になれば、ゼロ人前にしたのです。

    これは体力の点からいえば「合理的」でさえあります。現代の税制は所得を基準にしており、年齢による区別はありません。私が言いたいのは、古代の税制は肉体年齢を規準にしたもので、それなりに「合理性」をもっております。61歳に達すれば課役が「半額」となり、66歳になれば「全額免除」になる点です。これは労働能力を考慮したからでしょう。

    近頃の風潮として、60歳定年を65歳に引き上げる傾向がありますが、さらに70歳まで働け、と政府は吹聴します。これは一面では古代の税制上の年齢区分に逆行しています。もちろん職場によって定年引上げとは言いながら、「嘱託」とか「再雇用」と称して満額でないこともあって、60歳から65歳の壁は、やはり古代と同様の場合もあるようです。

    さてもっと高齢者となれば、古代はどうだったのでしょうか。80歳及び「篤疾」(とくしつ)という労働力がまったくない障碍者には「侍丁」(じてい)と称する介護者1人が充てられるのです。90才なら侍丁は2人、100歳なら侍丁は5人に増えます。古代は大家族制でしたから、侍丁となる人材はいくらでもいたと考えられます。若い者が高齢者の介護にあたとるのは当然といえば、そうなんでしょうが、この侍丁には免税措置が講じられ、庸と雑徭がからないのです。為政者側からいうと、庸と雑徭を免除してやる代わりに、高齢者や篤疾者を介護せよ、という理屈になります。

    「高齢者を家族で面倒をみよ」。現代もそうした趣旨の発言がしばしばみられます。古代もそういった発想だったようですが、介護に当たる成年男子には「力役の系列」と「物産の系列」の一部が免除になったのです。現代はどうでしょうか。高齢者介護に当たる家族に税制上の控除または免除といった特典はあるのでしょうか。寡聞にして知りません。「老老介護」なんて実にわびしいことばがあります。前期高齢者が後期高齢者の介護に当たる場面を想定しがちです。しかし、後期高齢者が後期高齢者の介護に当たる場面が、もうすぐきます。そのとき、古代の方がましやったと言いたくなりましょう。