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    私は先に「古代の疫病」の項目において、「今日世間を騒がせている新型コロナ感染症の流行が時の政権を左右することがある」趣旨のことを述べました。まさしく疫病の流行によって政権が交代しました。安倍政権から菅政権の交代は新型コロナ感染症の流行が契機となったと見なさざるを得ません。安倍前首相はご自身の病気が昂じて政権を放り投げましたが、コロナ禍が主たる原因であったと思います。




    その安倍前総理に代わって新総理についた菅氏は、安倍氏に第二次内閣発足以来、長年にわたって官房長官として仕えて来られました。そして在任期間が歴代最長という金字塔を打ち立てられています。そのような方だから、安倍氏の後継者として、誰もが納得のいく人物であります。私の推測ですが、ご本人も内心そう思っておられたようです。というのは、自民党の総裁選挙にて、壇上に上がった石破元幹事長、岸田政調会長、安倍前総裁と共に万歳三唱をするとき、菅新総裁の右手がやたらと小刻みに震えていたからです。これはしてやたったりという気持ちの表れでないかと思われるからです。私の推測でありますが……。




    菅新総理は意思の強い方です。私は案外と長持ちする内閣ではないかと思っております。コロナ禍に打ち勝って、2~3年は続く長期政権となるかも知れません。ただし政治の世界は一寸先は闇夜と申して何が起こるか分かりませんが……。菅新総理は各閣僚に対して指示を出して、規制改革・デジタル庁の新設などを命じておられますが、その際に官僚の悪しき前例主義の廃止などがこれまでの安倍前総理には見られなかった所であります。私など国民の最も期待するものが見受けられます。




    菅新総理は老練な政治家であります。私の観察によれば、その面構えは並みの政治家のそれではありません。じっと官房長官として安倍前総理にひたすら耐えて来られた証しではないでしょうか。






    古代の疫病の流行に対してとって国家がとった政策はどうだったのか、を簡単に見て参ります。まずは奈良時代の例を挙げます。天平10年(738)に作成された「但馬国正税帳」という但馬一国の財政がわかる正倉院文書があります。前年度の財政報告書ですが、ここに興味深い記事が見えます。天平9年6月26日付けの太政官符によって、疫病の徒1412人に賑給(しんごう)する費用として稲1227束余りを支出するという記載であります。賑給とは困窮する人民を救援するために米などを支給することであります。このときの米は「加由」(粥)や「阿米(飴)」に仕立てられました。要するに疫病に罹っている人民の基礎体力を付けさせるものでした。医学知識の乏しい時代にあって、精一杯の措置であったと思われます。




    つぎに平安時代の例を挙げます。関白道隆や道兼が疫病に倒れて政権が崩壊した長徳元年(995)を中心とした時代を見て行こうと思います。前年の正暦5年(994)には京中の路頭の病人を収容せしめ、「疾疫を救い消さんが為に」伊勢神宮などの諸社に奉幣しています(『日本紀略』)。同じころ「このごろ疫癘滋発し、人民憂悩す」という勅を奉じて、東大寺の大仏前にて大般若経を転読させております(『類聚符宣抄』)。神仏に祈祷するしか手立てがなかったのであります。これ以後、時代を追って、寺社の数はふえるが、基本的な対応策は変らなかったのす。かつて天平時代に行われていた、地方財政を割いて、人民を救済するという律令制の真面目さがもはや崩壊して、神仏に祈祷する以外に方策はなかったのであります。


    わが国の古典に疫病の流行を示す話は、『古事記』の崇神(すじん)天皇の段に、この天皇の御世に、疫病多いに起りて、人民尽きんなんとす。ここに天皇の夢に大物主の大神があらわれて、意富多々泥古(おほたたねこ)に我を祭らわせたならば、国は安平するであろうと告げました。そこで天皇は意富多々泥古という人物を探し求め、意富多々泥古に大物主の神を祭らせたところ、疫気ことごとく止み、国家は安平になったと言います。『日本書紀』は崇神天皇5年および7年条にかけて、大田田根子命(みこと)の話しとして出て参ります。記紀間で人名表記が異なりますが、同じ話です。




    次に疫病のことが登場するのは、仏教伝来の記事です。崇仏派の蘇我稲目の仏教信仰の後に、「国に疫気おこりて民夭残することを致す」状況になったのは、廃仏派の物部尾興や中臣鎌子らの意見を用いなかったからだという反論があって、廃仏が行なわれています。すなわち仏教信仰が疫病の流行をもたらせたという見方なのです。




    奈良時代の疫病の多くは「瘡」(もがさ)でありました。疱瘡、天然痘のことです。『続日本紀』によると、天平7年(735)8月12日条に、「大宰府に疫死せる者多し。思うに疫気を救療して以て民命を済(すく)わんと欲す」という勅が出ています。また大宰府からの報告として、「管内の諸国、疫瘡大いに発(おこ)りて、百姓悉(ことごと)くに臥せり」とあります。大宰府菅内とは九州全体を指します。つまり九州全体が疫瘡に侵されているのです。この時の疫病の流行は新羅からの使いが持ち込んだと考えられています。




    この時の疫病の流行で時の政権が崩壊しました。天平9年(737)4月に藤原房前(ふささき)が亡くなり、5月には詔して疫病と日照りが続いていると指摘し、天下に大赦し、7月には諸国の飢えと疫病に苦しむ人民に食料を施しています。そして同月には麻呂が亡くなります。かれらの長兄武智麻呂もついに亡くなり、8月になって宇合(うまかい)も亡くなるのであります。いわゆる藤原4子政権の崩壊です。かわって政権を担うのは橘諸兄(もろえ)です。藤原4子が相ついで疫病に倒れたのであります。




    このように疫病の流行によって、政権が崩壊するといった予測もしない状態をもたらしたケースが平安時代にもありました。長徳元年(995)正月より疫病が流行しました。『百練抄』によると、ときの関白藤原道隆は4月11日に亡くなり、代わって関白になった藤原道兼は5月8日に亡くなり、同日左大臣の源重信が亡くなり、4、5月の間に疫疾いよいよ盛んとなり、中納言以上の政権を担うもので亡くなった公卿は8人の多きに及んだと言います。四位・五位のの官人あわせて60人ばかりが亡くなり、7月になってようやく収まったとあります。関白の道隆や道兼に代わって政権を担うのが、かの「御堂関白」の藤原道長でありました。




    以上に述べたがごとく、疫病の流行は時の政権をも襲う恐ろしいものでありました。今回の新型コロナ感染症の流行が今の政権を左右しかねないとは、誰が断言できましょうか。





    京都近辺では「故人の遺言でしたから」を言い訳に、いわゆる家族葬が普及しています。わたくしども僧侶にさえ、昔ながらのご近所さんまでを会葬者にするという葬儀式に出会うことは珍しくなりました。家族葬がまだ普及しないひと昔前に、今日のお葬式はえらく会葬者が少ないと感じたとき、はじめて家族葬なるものの出現を知りました。亡き人を直接知る人がいなくなる超高齢者社会の到来によって、家族葬の普及が予想しえました。つまり会葬者の存在は、葬儀の主体たる故人との関係によって成り立つものと考えがあったからであります。




    ところが、最近は家族葬といって、故人との関係如何にかかわらず、家族以外の会葬者を拒否できる口実にできるものだから、これはど便利なものはないと、ご近所づきあいの苦手な喪主や遺族らの間で珍重されてきたものと思われます。しかしながら、これほど人間関係を見事に拒絶できるものはないのです。本当に故人の「希望」や「遺言」だったかどうか確かめようがありません。私には家族葬という言葉のなかに、葬儀式にはご近所づきあいという最小限のコミュニティから成り立っていることを忘れているのではないかと思えてならないのです。




    最近私の住む町内の人が亡くなり、町内の役員さんたちが右往左往しているでありませんか。聞けば同じ町内の人間として弔意をあらわしたいが、その方法がないという、近所づきあいのレベルの問題の解決方法に悩んでおられたのです。結局、町内の人は後日あらためて弔意をあらわすことにしたと言います。ところが葬家にとってその応対のための時間を割かねばならず、かえって面倒だったと言います。ましてや町内という顔の見える付き合いならともかく、生前の故人との関係を知悉していない場合、これほど厄介な仕儀はないのです。




    さて、当ブログの記主の言いたいことは、家族葬という最近の葬儀の出現に異を唱えたいのです。仏僧としての立場を離れての提言であります。もちろん葬儀屋さんの手先でもありません。故人の意向はどうであれ、喪主や葬家の遺族の考えはどうであれ、葬儀には最小限かつ基本的なコミュニティであるご近所付き合いの方々(町内会)のお見送りは受けるべきだと考えております。というのは、町内会は故人にとって長年にわたり日常的に顔を合わせてきた人々の基本的かつ生得的なコミュニティであるからです。




    家族葬というわけのわからない葬儀式の形態はとっとと退場していただきものです。まずは葬儀に町内会の人々にもご案内をいただきたいものです。それから先は、案内を受けた人たちの考えにしたがって、葬儀に参列し、故人を見送るかどうかは、その人の自由に任せるべきでしょう。











    江戸時代の文献『日次記事』(ひなみきじ)は面白い記事にあふれています。正月二日条に、この日の夜、洛東の愛宕寺(念仏寺)では、門前の住人が寺の客殿に集まり、南北二列に座して宴飲し、上座のものから倍木(へぎ)を持って立ち舞う。これを「天狗の酒盛り」と称しますが、天狗とは、もとは「転供」(供物を手から手へと送って仏前に供えること)がなまったものです。宴が終わると、本堂に昇って、牛王杖(ごおうづえ)で大いに門扉や床壁をたたき、また法螺(ほら)を吹き太鼓を打ち、その間に寺僧が牛王札を貼った。これには「悪魔をはらういわれがあると言います。




    ここで若干の説明をしておきましょう。まず舞台となる愛宕寺のことです。愛宕(おたぎ)寺は念仏寺とも称し、もとは東山区の六波羅蜜寺の向かいにあって、大正11年(1922)に現在地の右京区の化野(あだしの)に移転しました。毎年8月23日の夜、多くの無縁仏の石像にろうそくを立てて供養することで有名ですが、江戸時代は「天狗の酒盛り」の方が知られていたようです。




    次に牛王杖とは、牛王宝印のお札を棒の先に挟んで境界に立てて除災・降魔の呪具に使われますが、この牛王杖をもって大いに門扉・床壁などをたたく行為に興味を惹かれます。『日次記事』は密教系の寺社にて牛王加持のことを記しており(元日条、七日条、八日条、十五日条など)、年中行事として行なわれておりました。




    それではなぜ牛王杖をもって門扉や床壁をたたいたのでしょうか。音を立てることで悪魔や邪霊を驚かせて退散せしめたとも思えますが、それなら法螺を吹き、太鼓を打ち、爆竹を鳴らせばよいでしょう。石清水八幡宮でも疫病よけの「蘇民将来の木符」を売っており、「参詣人携え帰り、小児の衣類を撃(たた)く」とあります(十八日条)。木符で衣類をたたくこと、牛王杖で門扉・床壁をたたくこと、この両者は民俗として共通性が考えられます。つまり、呪具でタタクそしてハラウ、という行為に民俗としての原義があったのです。




    悪鬼・邪霊(災いをもたらす主体)や疫気(疫病の原体)は空中に充満し、やがて建物や衣類に付着するーー可視的にはホコリ・チリのようなもの、それを年頭にたたき・はらうのであります。神祇信仰の〈祓(はら)い〉という古代人の素朴な思想が生きていたのです。




    ところで、今日世間さわがせている新型コロナウイルスを、古代から江戸まで連綿と続く民俗信仰で理解すると、牛王杖でタタクとなるでしょうか。