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  • 古代の疫病の流行に対してとって国家がとった政策はどうだったのか、を簡単に見て参ります。まずは奈良時代の例を挙げます。天平10年(738)に作成された「但馬国正税帳」という但馬一国の財政がわかる正倉院文書があります。前年度の財政報告書ですが、ここに興味深い記事が見えます。天平9年6月26日付けの太政官符によって、疫病の徒1412人に賑給(しんごう)する費用として稲1227束余りを支出するという記載であります。賑給とは困窮する人民を救援するために米などを支給することであります。このときの米は「加由」(粥)や「阿米(飴)」に仕立てられました。要するに疫病に罹っている人民の基礎体力を付けさせるものでした。医学知識の乏しい時代にあって、精一杯の措置であったと思われます。




    つぎに平安時代の例を挙げます。関白道隆や道兼が疫病に倒れて政権が崩壊した長徳元年(995)を中心とした時代を見て行こうと思います。前年の正暦5年(994)には京中の路頭の病人を収容せしめ、「疾疫を救い消さんが為に」伊勢神宮などの諸社に奉幣しています(『日本紀略』)。同じころ「このごろ疫癘滋発し、人民憂悩す」という勅を奉じて、東大寺の大仏前にて大般若経を転読させております(『類聚符宣抄』)。神仏に祈祷するしか手立てがなかったのであります。これ以後、時代を追って、寺社の数はふえるが、基本的な対応策は変らなかったのす。かつて天平時代に行われていた、地方財政を割いて、人民を救済するという律令制の真面目さがもはや崩壊して、神仏に祈祷する以外に方策はなかったのであります。