わが国の古典に疫病の流行を示す話は、『古事記』の崇神(すじん)天皇の段に、この天皇の御世に、疫病多いに起りて、人民尽きんなんとす。ここに天皇の夢に大物主の大神があらわれて、意富多々泥古(おほたたねこ)に我を祭らわせたならば、国は安平するであろうと告げました。そこで天皇は意富多々泥古という人物を探し求め、意富多々泥古に大物主の神を祭らせたところ、疫気ことごとく止み、国家は安平になったと言います。『日本書紀』は崇神天皇5年および7年条にかけて、大田田根子命(みこと)の話しとして出て参ります。記紀間で人名表記が異なりますが、同じ話です。
次に疫病のことが登場するのは、仏教伝来の記事です。崇仏派の蘇我稲目の仏教信仰の後に、「国に疫気おこりて民夭残することを致す」状況になったのは、廃仏派の物部尾興や中臣鎌子らの意見を用いなかったからだという反論があって、廃仏が行なわれています。すなわち仏教信仰が疫病の流行をもたらせたという見方なのです。
奈良時代の疫病の多くは「瘡」(もがさ)でありました。疱瘡、天然痘のことです。『続日本紀』によると、天平7年(735)8月12日条に、「大宰府に疫死せる者多し。思うに疫気を救療して以て民命を済(すく)わんと欲す」という勅が出ています。また大宰府からの報告として、「管内の諸国、疫瘡大いに発(おこ)りて、百姓悉(ことごと)くに臥せり」とあります。大宰府菅内とは九州全体を指します。つまり九州全体が疫瘡に侵されているのです。この時の疫病の流行は新羅からの使いが持ち込んだと考えられています。
この時の疫病の流行で時の政権が崩壊しました。天平9年(737)4月に藤原房前(ふささき)が亡くなり、5月には詔して疫病と日照りが続いていると指摘し、天下に大赦し、7月には諸国の飢えと疫病に苦しむ人民に食料を施しています。そして同月には麻呂が亡くなります。かれらの長兄武智麻呂もついに亡くなり、8月になって宇合(うまかい)も亡くなるのであります。いわゆる藤原4子政権の崩壊です。かわって政権を担うのは橘諸兄(もろえ)です。藤原4子が相ついで疫病に倒れたのであります。
このように疫病の流行によって、政権が崩壊するといった予測もしない状態をもたらしたケースが平安時代にもありました。長徳元年(995)正月より疫病が流行しました。『百練抄』によると、ときの関白藤原道隆は4月11日に亡くなり、代わって関白になった藤原道兼は5月8日に亡くなり、同日左大臣の源重信が亡くなり、4、5月の間に疫疾いよいよ盛んとなり、中納言以上の政権を担うもので亡くなった公卿は8人の多きに及んだと言います。四位・五位のの官人あわせて60人ばかりが亡くなり、7月になってようやく収まったとあります。関白の道隆や道兼に代わって政権を担うのが、かの「御堂関白」の藤原道長でありました。
以上に述べたがごとく、疫病の流行は時の政権をも襲う恐ろしいものでありました。今回の新型コロナ感染症の流行が今の政権を左右しかねないとは、誰が断言できましょうか。