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  • 京都近辺では「故人の遺言でしたから」を言い訳に、いわゆる家族葬が普及しています。わたくしども僧侶にさえ、昔ながらのご近所さんまでを会葬者にするという葬儀式に出会うことは珍しくなりました。家族葬がまだ普及しないひと昔前に、今日のお葬式はえらく会葬者が少ないと感じたとき、はじめて家族葬なるものの出現を知りました。亡き人を直接知る人がいなくなる超高齢者社会の到来によって、家族葬の普及が予想しえました。つまり会葬者の存在は、葬儀の主体たる故人との関係によって成り立つものと考えがあったからであります。




    ところが、最近は家族葬といって、故人との関係如何にかかわらず、家族以外の会葬者を拒否できる口実にできるものだから、これはど便利なものはないと、ご近所づきあいの苦手な喪主や遺族らの間で珍重されてきたものと思われます。しかしながら、これほど人間関係を見事に拒絶できるものはないのです。本当に故人の「希望」や「遺言」だったかどうか確かめようがありません。私には家族葬という言葉のなかに、葬儀式にはご近所づきあいという最小限のコミュニティから成り立っていることを忘れているのではないかと思えてならないのです。




    最近私の住む町内の人が亡くなり、町内の役員さんたちが右往左往しているでありませんか。聞けば同じ町内の人間として弔意をあらわしたいが、その方法がないという、近所づきあいのレベルの問題の解決方法に悩んでおられたのです。結局、町内の人は後日あらためて弔意をあらわすことにしたと言います。ところが葬家にとってその応対のための時間を割かねばならず、かえって面倒だったと言います。ましてや町内という顔の見える付き合いならともかく、生前の故人との関係を知悉していない場合、これほど厄介な仕儀はないのです。




    さて、当ブログの記主の言いたいことは、家族葬という最近の葬儀の出現に異を唱えたいのです。仏僧としての立場を離れての提言であります。もちろん葬儀屋さんの手先でもありません。故人の意向はどうであれ、喪主や葬家の遺族の考えはどうであれ、葬儀には最小限かつ基本的なコミュニティであるご近所付き合いの方々(町内会)のお見送りは受けるべきだと考えております。というのは、町内会は故人にとって長年にわたり日常的に顔を合わせてきた人々の基本的かつ生得的なコミュニティであるからです。




    家族葬というわけのわからない葬儀式の形態はとっとと退場していただきものです。まずは葬儀に町内会の人々にもご案内をいただきたいものです。それから先は、案内を受けた人たちの考えにしたがって、葬儀に参列し、故人を見送るかどうかは、その人の自由に任せるべきでしょう。