現今世界中を恐怖に陥れている新型コロナウイルス感染症のごとき流行病を古代語では「えやみ」とよんでおり、「疫」または「疫癘」の字をあてます。その疫病が慢性化して社会問題となるのは、人口密集地である都市においてであります。特に平安京の時代になってからであります。
平安京は、遷都以前にその中央部を流れていた賀茂川と高野川の河道を左京の東辺へ付けかえたが、西南部は湿地帯のままで、右京はいたるところに小泉が存しておりました。本流を改修した賀茂川の流れは、いったん大水ともなれば、自然の流れに戻ろうとするかのように、京内に襲いかかりました。洪水ともなれば、左京は濁流に押し流され泥の海と化しました。人口の密集は、こうした水害のたびに疫病をもたらせたのです。
大同元年(806)の洪水による疲弊から起きた疫病の流行は、平安京が最初に遭遇した災害でありました。大同2年から3年にかけて、京中に疫病が蔓延し、死骸が路傍にあふれました。朝廷は人民に米を与え、施薬に務め、また経典を読み、神社に祈祷しました。この時はほどなく治まりましたが、弘仁14年(823)諸国で発生した疫病は容易に治まらず、承和10年(843)ごろまで及びました。
こうした慢性的な疫病の頻発に対して、前代に見られた施米や施薬などの措置は、ほとんど行なわれなくなって、もはや神仏への祈祷だけとなります。その中で注目すべきは、奉幣・読経などをもって疫病の退散を願うときの、目的表現がほぼ定型化し、「疫気を攘(はら)う」とか、疫気を禦(ふせ)ぐ」、または「疫気に謝す」とあることです。この「疫気」とは、一般には疫病そのものを指しますが、しかし同時に疫病を起こさせる本体、もしくはその本体の存在を知らせるために本体から発現するものと解釈されます。「疫気」は、病源の本体という意味なら、当時の言葉でいうならば、「疫鬼」あるいは「疫神」と同義語となり、「気」がそこから発現して人間社会におそいかかり不幸な状況をもたらせる邪気・悪気の「気」なら、「物のけ」と通じるものがあります。
承和2年(835)4月の勅にも、「諸国、疫癘(えきれい)流行し、病苦する者衆(おお)し。その病は鬼神より来る」とあり(『続日本後記』)、「疫癘」の本源は「鬼神」とみられておりました。『倭名類聚鈔』が「瘧鬼」(ぎゃっき)を[えやみがみ]とよみ、帝王顓頊(せんぎょく)の子が死去して疫鬼となったという中国の伝説を引いているので、疫鬼・疫神を具体的には死霊と観念していたのではないかと考えられます。
一方の「物のけ」は、妖怪な現象を起こす本源と考えられて、この時代から言い出されます。承和9年(842)5月に内裏に「物のけ」が出て、占えば「疫気、咎(とが)を告ぐ」と出たので、諸国に疫神を祭らせております(『続日本後記』)。こうしてみると、「疫気」と「物のけ」とは、古代人の宗教意識の深層において、同一の存在、あるいは同一の本体から由来するものと捉えられていたと思われます。
「疫気」や「物のけ」の本源が死霊であるとの宗教意識は、9世紀前半の古代社会を襲った慢性的な疫病の蔓延に対する人々の恐怖感の所産でありました。ところで現今の世上を賑わしている新型コロナウイルス感染症という疫病について、科学の基礎知識をもつ現代人には、まさか死霊が原因だと信じる人はいないでしょうね。