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  • 松本清張氏の「清張通史4」は「天皇と豪族」と題し、いわゆる大和朝廷の時代を扱うことになります。章立ては、「9-虎と詩」以外は歴史用語でもって書かれているから、内容の把握は容易です。書題の「天皇と豪族」は『清張通史3』をうけて、倭王讃以下の五王が南宋に朝貢した5世紀後半より、672年の壬申の乱前夜までを扱っております。主として古事記・日本書紀(記紀)の世界ですが、歴史書としては日本書紀が主たる史料となります。




    倭王武(雄略天皇)のとき、平群(へぐり)氏が大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)に大伴・物部(もののべ)両氏がなって、朝廷を運営します。大臣は最高執政官で、平群氏のあとは巨勢氏・蘇我氏と続きます。大連は軍事最高指揮官で、大伴・物部両氏の間では、大伴氏は朝鮮関係、物部氏は国内関係という分掌があったようです。




    ところで、書紀が伝える天皇のなかで、悪逆を極めた武烈天皇は当時権勢の絶頂にあった大連の大伴金村によって殺されたと松本氏は推測されています。武烈の暴虐ぶりを例示すると、妊婦の腹を裂かせ、胎児を取り出した、人の生爪を抜き取り、その指で山芋を掘らせた、人の頭の毛を抜き、木の上に登らせ、幹の所を切り倒して、その者が落ちて死ぬのを見て楽しんだ、池の樋(とい)の中に人を伏せて入らせ、水の勢いでその者が樋の外に流れでるのを、三又(みつまた)の矛で刺し殺すのを楽しんだ、人を木の上に登らせ、弓で射落として喜び笑った、など枚挙にいとまありません。




    通説では中国王朝の易姓革命の思想の影響をうけて、王朝の始祖の天皇の徳行を強調するために、王朝交代期にあたる武烈を架空の暴君に表現したものと言われています。しかし、では中国王朝の易姓革命の思想の影響をうけて、王朝の始祖の天皇の徳行を強調するために、王朝交代期にあたる武烈を架空の暴君に表現したものと言われています。しかし、松本氏は新説を唱えて、武烈は実在し、朝廷の実力者の大伴金村によって暗殺されたとみています。




    次に松本氏の本書における新見解を紹介します。それは聖徳太子に対する人物評価です。書紀には冠位十二階の制定、隋との外交、十七条憲法の制定、三経(勝鬘経・法華経・維摩経)の講義、諸寺院の建立などを、聖徳太子の業績として掲げていますが、松本氏はいずれも懐疑の念をもって見ています。聖徳太子は推古女帝の摂政となりますが、摂政といっても、後世のような天皇の代行ではなく、「天皇の助手」に過ぎず、推古女帝の代行者は実務派の大物大臣の蘇我馬子だったといいます。したがって冠位十二階の制定、隋との外交は、馬子の主導で行われたと言われます。十七条憲法の制定にしても、仏教臭のする代物は白鳳時代の僧侶の偽作と決めつけた学説を支持さています。勝鬘経・法華経・維摩経の三経を講義した講義録の『三経義疏』は奈良時代の行信という僧の関わりがあったといいます。残るのは諸寺院の建立ですが、七堂伽藍をもつ寺院建築の事業は、国家予算をもってしなければできないことで、国庫をにぎる馬子にして初めて可能なことであったと断言されます。




    要するに、書紀が伝える聖徳太子像はすべて虚構だというのが松本氏の見解なのです。本書は1988年の初版だから、当時はかなり先鋭的な見解を披露されていたのです。書紀に対する史学界の態度は、戦前の皇国史観から解放されて、何でもかんでもを「書紀の潤色」とか「書紀の捏造」で片付けてきましたが、松本氏の史料の扱い方は、公平さをたもっている方だとおもわれます。