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  • 私はもと大学の教授でありましたから、いちおう講演の依頼がときたまあって、人さまの前で、なにがしかのテーマでお話しする機会がございました。講演をした後で「何かご質問はございませんか」と尋ねますと、講演の主題からそれた質問を受けることがありました。たとえば行基の社会事業のことを話した後に、「仏教の伝来の年次に538年説と552年説があるようですが、先生は何年説をお考えですか」と言う具合の質問です。一瞬戸惑いを覚えますが、そこは売れっ子教授でない悲しさで、真剣に「今の学界では……」とこたえることになります。

    法然上人も法門談義のとき、このような経験をされたにちがいないかと思います。ある聴聞の人から、巻物になっているお経を折れ本のように畳み込むのは罪となるのでしょうか、という質問でありました。法然上人は、罪を得ることはないと答えられましたが、念仏のことならともかく、予期せぬ意外な問いに苦笑されたに違いあいません。

    法然上人に浄土の教えを求めた人びとのなかには、仏教信仰に関わる素朴な質問をしております。「一百四十五箇条問答」とよばれる法語がそうです(『和語灯録』巻5)。当時の神仏信仰における忌(い)みのありさまが知られる文献として、民俗学の立場から注目されてきました。しかし、法然上人の伝記を研究する上でも、この法語は面白いのです。

    この法語の発問者について、これまで「堂上方(とうしょうがた=公卿ら)の女房達」と推測しておりました(『和語灯録日講私記』第5)。「月のはばかりの時、経読み候はいかが」という女性特有の問いもあり、「女房」「妻」「あま法師」などの言葉が出てくるので、女房や尼たちと見てさしつかえないでしょう。しかし、「さけのむは、つみにて候か」のごときは、男性が問うているともか考えられます。いずれにしろ、発問者は僧俗・男女が入り混じっていると思われます。

    「一百四十五箇条問答」は、法然上人に直接お目にかかり口頭で尋ねたもの、手紙を差し上げて返事をいただいたもの、また内容が重複するものがあって、折々の機会になされたごく短い145個の法門の問答を集めております。法然上人の伝記の白眉と称せられる『勅修御伝』(正しくは『法然上人行状絵図』)にも、わずか19条だけであるが引かれています。『勅修御伝』では、ある人が独りで尋ねたことになっていますが、先述したごとく複数の人が尋ねた問答集と考えられるので、ここは『勅修御伝』の勇み足でしょう。『勅修御伝』と『和語灯録』の古版本と比較すると、用字の異同はともかく、文章がまったく変わらないので、『勅修御伝』は原典をかなり正確に引用していることが判明します。一般に『勅修御伝』と呼ばれて、宗派で最も権威ある伝記として尊ばれることへの嫌悪感から、史料的価値を低めるがごとき論議がなされるとすれば、それは見当違いだと言わざるを得ません。

    ところで、法然上人が提唱された専修(せんじゅ)念仏は次第に世人に受け入れられていったが、問題はその実践方法でありました。この法語には、「日所作」(にっしょさ・毎日の日課)としての「数遍(すへん・辺数)に関する問答が収められています。』法然上人は、毎日となえる念仏の数を定めなくても構わないが、怠る恐れがあるので数を定めるのがよいと答えられています。それではどれほどの数でしょうか。上人の答えは、1万辺から2万・3万・5万・6万ないし10万辺まで、自身の心に任せて自由になさい、というのでありました。

    そこで、「毎日の所作に、六万・十万の数遍を、ずずをくりて申し候はんと、二万・三万をずずをたしかに一つづつ申し候はんと、いずれがよく候べき」という質問がでたのです。この質問は少し言葉足らずであって、補足して解説しますと、数珠を早く繰りながら、急いで6万・10万辺となえるのと、数珠をゆっくり繰り、一辺一辺を丁寧に2万・3万辺となえるのとでは、どちらか正しいのかと尋ねているのです。

    つまり念仏をとなえるのに、「数」を追求するのか、「質」を追求するのか、という疑問なのです。凡夫は念仏の数は多い方がよいと考えがちです。だが、日に6万・10万辺となれば、よほど早口にとなえねばならず、如法(教えの規則にかなう)な念仏は難しいのです。一方、数が2万・3万辺と少なければ、如法な念仏がとなえられます。如法(「質」)の2万・3万と不如法(「量」)の6万・10万と、どちらがよいのか、まじめな念仏者は迷うだけです。

    法然上人は、「凡夫の習い、二万・三万を宛つというとも、如法にはかないがたからん。ただ数遍の多いからんには過ぐべからず。名号を相続せんためなり」と答えられております。日課の念仏は、称名を継続することに意義があって、一日に何辺の念仏をとなえるかを定めることは、平生の怠りをふせぐためだと、上人は説かれています。

    問答の趣旨を別の観点に移しますと、読書論になりましょうか。速読(「量」)か、精読([質」)か、多読か、選読か。ほかにも例示できると思いますが、要はその人にとって、継続できる方法が最適なのでしょう。