法然は、久安6年(1150)18歳のとき、比叡山の西塔(さいとう)黒谷に隠棲し、慈眼房(じげんぼう)叡空の弟子となりました。叡空が治承3年(1179)に亡くなるまで、約30年間、法然は叡空に師事していたことになります。この間、師弟はつねに激しい問答を交わしております。よく知られた問答は。戒体論と観称優劣論であります。
戒体論とは、戒を持(たも)とうとする働きを起こさせる実体は何か、という議論です。師の叡空は「心」だといい、法然は「性無作(しょうむさ)の仮色(けしき)」だと言います。「心」とするのはよく分かりますが、「性無作の仮色」とは何のことかさっぱり分かりません。まずもって読み方からして現代人には通じません。だから仏教用語には閉口しますが、「性無作の仮色」とは生まれながらにもつ身体のことです。法然は「身体」説だったのです。戒体論については、古来より諸師の見解はさまざまで、一概には言えませんが、天台宗の開祖・智者大師が「性無作の仮色」説を取っているから、法然の主張は正しいのです。「立破(主張と反論)再三」に及び、問答多時」にわたったとき、叡空は腹を立て、木枕をもって法然を打ったので、法然はその場を去ったといいます。叡空は、熟慮すること数刻の後、法然の部屋に来て、率直に法然の説を認め、法然に弟子の礼をとりました。師弟の関係が逆さまになったのです。伝記作者は、これを「仏法にわたくしなきこと」と称賛しております。
往生の行(ぎょう)として観仏(仏の様相や功徳を想念し観察すること)と称名(仏のみ名を称えること)のいずれが優れ、いずれが劣るのか、という観称優劣論では、法然は称名が優れていると主張し、叡空は観仏の方が優れていると力説しました。法然は称名が阿弥陀仏の本願の行であることを論拠にし、叡空はその師・良忍も観仏が優れていると言っていたと強弁するのです。法然が「良忍上人も私どもより先に生まれておられたにすぎませんが……」と反論するや、叡空は腹を立てたます。法然は「唐の善導大師も『観経疏』のなかで、「称名」がすぐれた行であると述べられております。聖教(しょうぎょう・仏教典籍)をよくよくご覧にならないで……」と言ったとあります。叡空は腹立ちまぎれに拳で法然の背中をたたいたとか、沓脱(くつぬぎ)におりて下駄をもって法然をたたいたとか、伝記によって異なった書き方をしておりますす。
『法然上人行状絵図』という浄土宗では最も権威あり伝記として重用されるのによると、「建仁二年(1202)三月十六日、法然はつぎのように話した」という書き出しで、「慈眼房(叡空)は受戒の師範なるうえ、同宿して衣食の二事、一向(ひたすら)この聖(ひじり)の扶持(ふち)なりき。しかして法門をことごとく習いたる事はなし。法門の義は、水火のごとく相違して、常に論談せしなり」と述懐しています。法然の述懐は「あるとき」と年月を明らかにしない場合が通例ですが、珍しく建仁2年3月16日と日付まで記しています。先行する伝記に該当する記事がないので、史料的に問題がないわけではありません。しかし、師の叡空には同宿の上、衣食まで扶養してもらったが、仏法に関してはすべてを習ったことはなく、考え方は水と火のように違い、いつも論争していた、という箇所は問題ないと思われます。
叡空は気短で、論破する法然に暴力をふるっています。法然はそうした叡空にあきれて去ったわけでなく、また叡空もたてつく法然を破門したわけではありません。それでいてつねに水火のごとく論争する、何とも不思議な関係の師弟でありました。
私はそうした師弟間の論争を好ましく思いますし、また法然の考え方に学びたいのです。観称優劣論矣おいて、叡空が師説に立論したことに、先に生まれた人の説が必ずしも正しいとは限らない、と肩をすかしました。法然は「凡(およそ)は後学畏(おそる)べしといいて、学生(がくしょう・学匠に同じ)はかならずしも先達なればということはなきなり」とも述べております。先達の見解といえども、絶対に正しいわけではないから、学問に志すものは、批判し反論しなければならないのです。先説は必ず後進の学者によってやぶられるものです。だから後学畏るべしなのです。後輩格の研究者や教え子から論破されても悲しがらず、むしろ喜ぶべきでしょう。