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  • 松本清張氏の通史2は「空白の世紀」と題します。目次を見ますと、「1-謎の4世紀」から「10-階級・習俗」までの10章立ての構成であります。空白の世紀とは、西暦226年に倭王壱与が晋に使者を送って以来、421年に倭王讃が宋に朝貢するまで、中国の史書に倭国に関する記事が約150年間途絶えることを意味します。この間に東アジアにおける大変革を、松本氏は該博な知識でもって述べています。それが「2-南風をのぞむ」という文学諷のタイトルで記しており、歴史書らしかぬ表現もあります。




    日本列島における変革は、弥生文化からいわゆる前方後円墳に代表される古墳文化へと発展します。3世紀後半から7世紀までの古墳時代は前期・中期・後期に区分されますが、前期の副葬品が弥生時代の延長であるのに対し、中期になると墳丘規模が巨大化するとともに、副葬品として武具・馬具が多くなります。この違いに着目して、松本清張氏は江上波夫氏の「騎馬民族渡来」説を支持されます。なお、前方後円墳という呼称は、江戸後期に蒲生君平が名づけたもので、方形部を前、円形部を後ろとする根拠はなく、松本氏は方円墳と呼ばれていますが、それでも時折、前方後円墳とも言っておられて、用語に混在が見受けられます。




    さて、江上氏の「騎馬民族渡来説ですが、「7-騎馬民族説」で詳論しています。松本氏は、江上説を踏まえて、次のようにまとめておられます。――南朝鮮地域は、魏志東夷伝にあるように、倭種がたくさん住んでいた。これらの倭種は北部九州の倭種とおなじで、朝鮮海峡をへだてていても、生活圏は一帯であった。4世紀ごろ、馬韓の地に北から騎馬民族の扶余が入り、土着民を統一して百済を建国し、それより遅れて辰韓に入った扶余族も新羅を建国した。弁韓にも扶余族が入って倭・韓の土着民を統括したが、そこでは建国せずに、日本列島に移って畿内で政権を立てた――と。




    江上氏は北方アジアの遊牧・騎馬民族(扶余族)の日本への渡来を二度の波としてとらえられている。第1波は4世紀前半にきて、筑紫地方で政権を打ち立てました。記紀では崇神天皇を呼ばれている人物であります。そして第2波は4世紀後半から5世紀初めにかけて筑紫より畿内に入った。記紀では応神天皇に当たるといいます。この第2波が神武天皇の東征説話に反映していると言います。




    江上説に対して、文献史学の泰斗・井上光貞氏は、崇神天皇を海をこえて渡ってきた征服者とみた場合、記紀が伝える崇神天皇の事績と人物像に一致しないと反論しています。また松本氏は、扶余族は北部九州に約100年ほどいたことになっておるが、その足跡が一つもないと批判されています。海峡をわたってきた外来者が、北部九州に落ち着かないで、そのまま瀬戸内海を東に航行し河内に上陸し、ついで大和に入ったと推測されています。なお、松本氏は第2波に代表される渡来者を仁徳天皇に比定することは容認されていますが、しかし、「河内王朝」の存在は認めておられません。




    「9―大和の「任那」」に、これまでの歴史の教科書をひっくりかえすような見解が述べられます。方円墳が山陵とよばれるにふさわしいほどの巨大なのは、これを遠くから見せるために作られたからであります。現代のように航空写真で鳥瞰するわけにはいけません。円形と方形が連結した横に長い形を――ヒョウタンを縦に切って横に置いたような形――瓢塚(ひさごづか)の名がつけられているような、ならび丘のような形こそが、遠くから見せる形であったといいます。現在「側面」だと思われているところが、人びとに見せる「正面」であったのです。




    『清張通史2]には、これら以外に創見にあふれています。私の率直な感想を述べさせていただくなら、『通史1』での〈ワクワク〉感はなく、松本氏の知見が充満した〈そんなこともあったのか〉という感じが残りました。よほど松本史観が好みの方しか耐えられない「玄人」向きの通史であるということです。