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  • 日本の文化史の上で、古代的と近世的の分水嶺が中世にあることは自明の事実ですが、私は二つの変革期があったと思います。その一つの変革期は南北朝だと思います。南北朝時代は建武3年(1336)から明徳3年(1392)までの約60年間を指します。京都の持明院統の朝廷(北朝)に対して吉野などに大覚寺統の朝廷(南朝)があり、相互に戦っていました。両朝の争いは天皇や貴族、武士だけでなく民衆をもまきこみ、国家社会に大きな変革をもたらせました。奈良・平安から続く荘園制や寺社勢力が衰え、古代文化の担い手である貴族さえもが多くがこの内乱で死没し、代わって武士が能や狂言、連歌など土着の文化の担い手となりました。この新しい文化は現在まで「古典」として継続しています。

    次の変革は応仁・文明の乱であります。応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで文化の中心地の京都を焦土と化しました。乱の後、室町幕府・守護大名の体制と荘園制は崩壊へ向かい、下克上の戦国時代を奏でる序曲でありました。古代的権威がまったく失墜し、近世的世界が胎動します。この第二の変革期を生き抜いた一人の貴族がいました。一条兼良(かねよし)であります。

    兼良は応仁元年、乱の勃発にさいして二度目の関白に任ぜられますが、まもなく邸宅を焼かれたので、翌年に興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん・兼良の五男)を頼って、奈良へ避難します。文明2年(1470)に関白を辞した後も奈良に留まり、ようやく京都へ戻ったのは、世の中が静まった文明9年の歳末でありました。兼良は文明14年(1482)4月、80歳でその生涯を閉じましたが、当時の貴族の日記に兼良の死を悼む文言が散見します。

    「日本無双の才人なり。已(すで)に日月の明かりを失ふか」(『十輪院内府記』)とか、「天下のため、朝家のため、歎き存ずるの外に他なし。‥‥‥和漢の御才学比類なし。‥‥‥公家の滅亡の時刻到来か。悲しむべし、悲しむべし」(『宣胤卿記』)とか、「天下才人、近代無双の名誉の御事なり。世以て惜しみ奉る。‥‥‥本朝五百年以来、この殿程の才人御座あるべからずの由、有識の人々沙汰せしむ」(『長興宿祢記』)とあります。兼良に対して、天下無双の才人、和漢の才学比類なし、という誉め言葉は、決しててらいではなく、有職故実はもとより、神話・律令・和歌・訓詁などの諸学に通じ、古今まれに見る学識の持ち主でありました。

    「倭漢の学識、古人に愧(は)ぢず、自ら才気を負(たの)む」というから(『梅庵古筆伝』)、こうした和漢の学識には、当人も自負するところがあったようです。五百年以来の才人との風評は,兼良の「家礼」(けらい・摂関家に出入りする人)である小槻長興(おづきながおき)が日記に書き留めているので、案外と当人からそう聞いていたかも知れません。だとすれば、兼良が意識した五百年前の才人は誰を指しているのでしょうか。『続本朝通鑑』に「兼良自ら謂(い)ふ」とする面白い逸話を伝えています。以下に概略を記します。

    私(兼良)には菅丞相(かんじょうしょう・菅原道真)より勝るものが三つある。彼は右大臣、私は太政大臣。これが第一。彼の家門は微賎、私は累世の摂関家、これが第二。彼が漢土のことを知るのは唐代以前、本朝のことを知るのは延喜以前だけである。ところが、私が和漢の古きを知るのは、これに加えて、唐代以後・延喜以後のことに及んでいる。これが第三.もし今より百年後の世人が彼より私を尊ばなければ遺恨に思う、と。そこで、当時の人が兼良を招待する際には、菅丞相の画像(渡唐天神像のことか)を床(

    とこ)の上には掛けなかった。もし偶見すれば、なぜ我が頭上に彼がいるのかと怒った。

    五百年前の才人とは菅原道真のことですが、兼良が「学問の神」とあがめられる道真より優れていると自慢するのは、一向に構いません。しかし、問題は第3の点です。和漢の故実(歴史)に関する知識について、延喜3年(903)に死去した道真が「和」は延喜以前、「漢」は唐代以前のことしか知らないのは当然であります。五百年来の才人との世評が、道真が知りようにも不可能な後代に属する学識を誇ることに存するのなら、兼良は才気を豪語する鼻持ちならぬ人物にすぎません。兼良の論法にしたがえば、彼が死去した文明以後(中国では明代以後)の歴史を学びえる後世の人は、ただそれだけで兼良より才気が勝ることになります。

    ところで、法然上人は「後学畏(おそ)るべし」という言葉を残しておられます。学問の世界では、先行の学説は後進の学者によって必ず訂正されるのです。一条兼良が才学において菅原道真を超えたと自負したならば、同時に何年か後の才人に超されると覚悟すべきでして、摂関家に生まれた貴族の慢心が見え隠れします。

     

     

     

     

     

    日本霊異記(りょういき)は奈良時代の仏教説話を集めた本ですが、単純な因果譚が多い中で、《蘇り》や《転生》といったまことに霊妙な話を収めています。《蘇り》の典型は、死後何日かたって蘇生し、閻魔王(閻羅王ともいう)がいる冥界(地獄)での体験を語るという冥界往来の説話です。《転生》の典型は、他人の物を盗んだり、負債を償わずに死ねば、牛に生まれ変わるという話です。人が牛のほか、犬や猿、あるいは蛇に《転生》する話もあり、それなりの罪業(ざいごう)をあげています。善業によって人が人に《転生》する場合もあります。次に紹介する話は、《蘇り》と《転生》の区別がつかない不思議な話なのです。

    ――讃岐国山田郡(現・高松市)に布敷臣衣女(ぬのしきのおみきぬめ)という人がいた。衣女は急病にかかり、山海の珍味を門の左右に供え、疫神にご馳走した。衣女を召しに来た閻魔王の使いの鬼は、走り疲れていたので、供え物を見て、こびるように食べた。鬼は馳走を受けた恩返しに、鵜足(うたり)郡(現・丸亀市)に住む同姓・同名の女を身代わりに連行していった。ところが、閻魔王に別人であることを見破られて、鬼は隠しきれず、仕方なく山田郡の衣女を召し連れてきた。鵜足郡の衣女は、家に帰ると、三日の間が過ぎていて、すでに火葬され、その体はなかった。鵜足郡の衣女は、再び閻魔王の所へもどって、依りどころとなる体を失ったことを訴えた。閻魔王はまだ残っていた山田郡の衣女の体を得よと命じたのである。そこで、鵜足郡の衣女は、山田郡の衣女の身となって蘇った。たちまち衣女は。わが家は鵜足郡にあると言い出した。山田郡の父母がお前はわが子だというのを聞き入れず、衣女は鵜足郡の家へ行った。鵜足郡の父母は衣女を見て、お前はわが子ではない、わが子は焼いた、と拒んだ。しかし、衣女は閻魔王の命令によることを詳しく述べた。両方の郡の父母は衣女の話を了解し、衣女は二つの家の財産を相続した、という――(中ノ二五)。

    『日本霊異記』のタイトルは「閻羅王の使いの鬼、召さるる人の饗(あえ)を受けて、恩を報ずる縁」となっており、“蘇った”のは山田郡の衣女のようです。この話を出典とする『今昔物語』には「鵜足ノ郡ノ女ノ魂、山田ノ郡ノ女ノ身ニ入ヌ。活(いき)テ云ク…‥‥」とあって(二〇ノ一八)、“蘇った”のは鵜足郡の衣女のようでもあります。鵜足郡の衣女の霊が山田郡の衣女の遺体に入ったわけですが、“蘇った”のは誰とみるのか、取りようによっては鵜足郡の衣女でもあり、山田郡の衣女でもあります。

    この話は、主人公の屍に別人の霊魂が宿った、という所が何とも奇妙で、しかも話のミソは同姓・同名にあります。ややこしいからA子・B子とよびます。山田郡の衣女(A子)の身代わりとなった鵜足郡の衣女(B子)に視座を置けばどうなるか。B子が冥界から戻ってみると、身を焼かれて、「体を失ひて依りどころなし」となり、蘇生することができなかったのです。再び冥界にかえり、閻魔王から「そ(B子の体)を得て汝が身とせよ」と命じられ、他人の屍を借りることで、B子の霊魂は依りどころを得たのであります。観点をかえれば、B子は“蘇り”ではなく、A子に“転生”したとも言えます。

    そもそも“転生”の主体は何か。『日本霊異記』は「それ神識(たましひ)は業の因縁に従ひ、或は蛇・馬・牛・犬・鳥等に生まる」とコメントしております(中ノ四一)。輪廻転生する主体は、まさしく霊魂でありました。ただ何に転生するかを決めるのは、霊魂そのものではなく、因果の理法が働くのであります。先の話では因果の理法が明確でないが、A子自身がよみがえったかに見えます。しかし霊魂の去就からすれば、B子がA子に生まれ変わったとみなさざるを得ないのです。さて皆さんはどう思われますか。

     

    この人の名前は旻(みん)と言い、大化の改新に「国博士」として登場します。歴史の教科書に出てくるから、無理やり覚えさせられて、それ以来、おそらく生涯この人の名前を書くことも、また見ることもないであろうと思います。それほど珍しい名前です。僧の名前は大抵2文字ですから、僧旻と通称します。

    かれが歴史の舞台に登場するのは、推古16年(608)のことで、遣隋使小野妹子に伴われて初めて隋に入った学生・学問僧8人の中に、「新漢人日文」と見えます(『日本書紀』、以下同じ)。新漢人とは「いまきのあやひと」と読み、6世紀前半期に百済から渡来した人びとを指します。「日文」はおそらく「旻」の1字では僧名にはならないと判断し、『日本書紀』の書写の際に2字に分解したのではないでしょうか。中国に在留すること24年、舒明4年(632)遣唐使犬上御田耜(みたすき)とともに帰国しました。

    舒明9年(637)に、大きな星が雷に似た音をたて、東から西へ流れたのを、時の人は流星の音だといい、また地雷だといったが、僧旻は「流星にあらず、天狗なり。その吠える声は雷に似ている」と説明しています。同11年(639)、長星が西北の空に現れた時、かれは「これは彗星で、これが現れると、飢饉になる」といっております。これらの逸話は、旻が天体の異常現象に関する知識をもっていたことを示しております。

    皇極4年(645)6月、有力皇族の中大兄皇子は、皇族中心の集権体制をめざして、中臣鎌足とともに、権柄をにぎる蘇我本宗家の打倒をはかり、蘇我蝦夷(えみし〉・入鹿(いりか)父子を滅ぼしました。このクーデターを乙巳(いっし)の変といいます。変の後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣、そして旻と高向玄理を国博士とする新政権が発足したのです。新政権はさっそく「大化」という年号を制定しました。

    新政権が発足した2か月後の大化元年8月に、僧尼を法興寺に集め、孝徳天皇が蘇我氏に代わって仏教を興隆していく旨を宣言し、十師を任じて僧尼の教導に当たらせています。十師とは10人の高僧をあて、仏教界を統制する機関でありました。旻はもちろんこの十師の筆頭の位置にあったと考えられます。大化5年(649)に天皇の詔をうけて、国博士の高向玄理と旻は「八省・百官」を置いたとあります。八省とは律令制の中務(なかつかさ)省・式部省などの総称で、百官とは諸官司またはそれらの官人の総称です。このときに律令制にもとづく官司・官人制が出来たとは思えません。おそらく『日本書紀』編者の潤色でしょうが、大化前代の伴造(とものみやつこ)-品部(しなべ)制を下敷きに、朝鮮諸国や中国南北朝の制度を参考しつつ、体系的な官司・官人制のプランを提示したものであろうと思われます。

    大化6年(650)に長門の国司が白雉を献上したとき、旻は中国における古典を駆使して白雉の出現が「休祥」(よきさが、吉祥の意味)に当ることを述べ、天皇は「聖王が世に出て、天下を治める時に、天こたえて祥瑞を示す」と詔を発して、白雉元年と年号を改めています。すぐれた人主(帝王)が現れて人民を統治していることに対して、自然界の突然変異がもたらす珍しい様ざまな現象(祥瑞)を、天が感じて応じた賜ものとみなした「天人感応説」に基づく思想であります。逆に暴君の場合、天が懲らしめのために、人民に危害を加えるような自然現象(災異)をもたらすのです。

    こうした祥瑞にしろ災異にしろ。天人感応説は未来に向かって言うときは、一種の予言となります。大きくは讖緯(しんい)思想ともいって、讖書や緯書と称した未来の吉凶禍福を予言する典籍として漢代に流行しました。旻は当時この讖緯思想をよくする知識人として重きをなしたのです。

    白雉4年(653)5月、孝徳天皇は、病に伏した旻の房に行幸し見舞っておられますが、6月に没しますが。天皇をはじめ、皇極上皇や皇太子中大兄皇子らが旻の喪を弔わせています。『日本書紀』には、旻は阿曇(あずみ)寺で病臥し、天皇が行幸して、旻の手をとって、「もし法師が今日死んだならば、朕は明日死ぬであろう」とまで仰せになったという一説を載せています。いかに天皇が旻を信任されていたかが知られます。旻の没後、皇太子中大兄皇子が孝徳天皇を難波に置き去りにして、母帝の皇極上皇らをともなって大和の飛鳥に戻るという事態が生じますが、天皇と皇太子の政治的な隙間を埋めていたのが旻であったと思われます。

     

    行基の宗教活動の第2期は、神亀2年(725)から天平13年(741)までです。この期間に、それまでの伝道に加えて、橋・池・溝・船息・堀・布施屋などを造営する社会事業をおこしたのです。「道場」を中核に、広域にわたる灌漑施設や交通施設を統一的な計画のもとに起工した背景には、地方豪族や有力農民らの周到な組織に支えられていたと思われます。だが、社会事業を完遂させたエネルギーは、人びとから「菩薩」とたたえられた行基の偉大な宗教的人格に淵源していたとも考えられるのです。

    第3期は天平13年(741)から死没する天平勝宝元年(749)までの期間です。《民衆の偶像》となった行基に対して、律令国家はもはや往年のごとく指弾できるはずはなく、むしろ行基の力を国家の側にすくいあげようとして、かれの宗教活動を公認したのです。天平13年(741)恭仁(くに)京の造営を始めた聖武天皇は、当時近くの泉橋院(道場の一つ)に滞在して、木津川に泉大橋をかける事業を指揮していた行基と歓談されたと伝えます。天皇は天平15年(743)盧舎那(るしゃな)大仏造立の詔(みことのり)を発して、行基を勧募の役に登用しました。大仏の造営には、功徳(くどく)を広く世界に及ぼすために、富と権勢をもつ天皇ひとりの事業とせずに、多くの人民に協力を求めるおいう形をとらせたのです。行基はさっそく多くの弟子等を率いて勧誘にまわり、2年後の天平17年(745)には最高位の大僧正に任ぜられました。

    しかし、天平勝宝元年(749)に82歳で没する最晩年の数年、行基の活動は明らかではありません。おそらく病気がちで、民衆教化の先頭に立つことが少なかったのでしょうか。だが、そのことは、行基の生涯の輝かしさを損なうものではありません。行基が歴史に刻んだ最大の功績が、伝道と社会事業の一体性にあるからです。

    とりわけ後世にまったく類例を見ないほどの規模と多様な社会事業の思想的な根拠は、何であったのでしょうか。大ざっぱにいうと、大乗仏教の《利他行》の実践ということですが、その思想を求めるとすれば、福田(ふくでん)思想が考えられます。福田とは、初めは敬い仕えれば大きな幸福を生み出す田という意味で仏や僧を指しましたが、次第に語義が深まり、憐みの心を起こして救済する行為をも言うようになります。そして七福田とか、八福田とか、例示する数が増えるにともなって、福田思想そのものが弱者救済の事業の意味に転じていったのです。

    ここで仏教史としてより重要な点は、大乗仏教の神髄である民衆の苦しみを救済する利他行の実践に。その生涯をささげたことです。こうした視点がなければ、行基が時の人より菩薩と仰がれた理由を見失ってしまうことになると思われます。

     

    奈良時代が生んだ民衆の偶像・行基は、天智7年(668)河内国大鳥郡(現・堺市)に生まれ、父を高志才智(こしのさだち)、母を蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といい、父母ともに百済)くだら)系氏族であります。とりわけ父方の高志氏は、西文(かわちのふみ)氏の一族で、つねに仏教文化を先取りした渡来系の氏族でありました。

    行基は天武11年(682)15歳のとき飛鳥の法興寺で出家し、唐から法相宗を伝えたばかりの道昭に師事しています。師の道昭は。法興寺で弟子を養成する一方、「天下に周遊して、路傍に井を穿(うが)ち、諸(もろもろ)の津の済(わたり)の処に船を儲(もう)け橋を造る」(『続日本紀』)という活動を展開した高僧で、行基がのちに社会事業をおこなったのは、この道昭の感化を受けたものと考えられます。そして行基は法興寺から新建の薬師寺へ移住しました。

    法興寺や薬師寺は大安寺とともに、この時代の国家仏教を推進させた国営の大寺院で、律令体制に奉仕する官僧たちの研修場でありました。すなわち行基は官僧としてスタートを切り、法興寺や薬師寺で、新来の仏教学である法相宗の学問を修めたのであります。ところが、行基は慶雲元年(704)に薬師寺を出て故郷に戻り、ついで生駒の山房に移って、山林修行に励みます。この間、おそらく父母と死別したものと考えられます。

    それまで平坦な官僧コースを歩んできた行基は、人生の大きな転換を迎えたと思われます。山林修行を通じて人生の苦悩を省察し、社会の現実を直視することによって、やがては山を下りて民衆救済のための宗教運動をおこすことを思い立ったのではなかろうか。鎮護国家に邁進する国家仏教では救いの対象にすらない民衆が無数に存在し、学問仏教では心の充足感が得られない人生の苦悩が無限にあることに目覚めた行基は、かれが歩んできた官僧の立場を放棄し、なによりも民間にとけこみ、人びとに仏恩の広大なることを示し、仏の教えを伝える決意を固めたものと思われます。

    行基の宗教活動の成果は、道場49院・橋6所・樋(ひ)3所・布施屋9所・船息(せんそく)2所・池15所・溝7所・堀川4所・直道1所だといわれます(『行基菩薩伝』など)。なお、樋とは用水路、布施屋とは都に物資を運ぶ人びとを収容し、医薬や食料を供給する施設、船息とは港、直道とはまっすぐな道路をいいます。これらの所在地は畿内にかぎられましたが、伝道のための「道場」(小寺院)はもちろん、広域にわたる灌漑と交通の施設を、相互に関連性をもたせ、かつ一体的に造営しています。『続日本紀』に、「親(みずか)ら弟子等を率いて、諸(もろもろ)の要害の処に、橋を造り陂(つつみ)を築く。聞見の及ぶ所、みな来りて功を加え、不日にして成る。百姓(ひゃくせい)今に至るまで、その利を蒙れり」と特筆しているのは、行基の造営した社会施設から民衆がこうむった恩恵がどれはど大きかったか、を物語っております。

    さて、行基の民間における宗教活動は、ほぼ3期に分かれます。まず第1期は、民間伝道を始める霊亀2年(716)から神亀2年(725)までの期間です。生駒の山房を去り、平城京のひざもと大和国で民間伝道に入ります。かれが始めたのは、街から街へ、村から村へ、弟子等(信者)を率いて乞食(こつじき)行をして、拠点となる地に道場をたて、民衆を教化することでありました。ところが、行基の活動が異様であったのか、たちまち律令国家から異端視されます。養老元年(717)、「いま小僧行基ならびに弟子等、街衢(ちまた)に零畳(おちかさな)りて、妄(みだ)りに罪福を説き、……歴門に仮説して強いて余物を乞い、……道俗擾乱して四民業を棄つ。進みては釈教に違い、退きては法令を犯す」という詔が出たのです。行基を名指しで非難しております。かれの宗教活動が指弾をうけたのは、和銅元年(708)からの平城京造営などを契機に、律令体制の矛盾があらわになったからです。しかし、行基はいぜん民衆の支持を得て、活動を続けますが、やがて大和国を去り、摂津・河内・和泉・山城の各地に転じて行くのであります。(つづく)