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  • 行基の宗教活動の第2期は、神亀2年(725)から天平13年(741)までです。この期間に、それまでの伝道に加えて、橋・池・溝・船息・堀・布施屋などを造営する社会事業をおこしたのです。「道場」を中核に、広域にわたる灌漑施設や交通施設を統一的な計画のもとに起工した背景には、地方豪族や有力農民らの周到な組織に支えられていたと思われます。だが、社会事業を完遂させたエネルギーは、人びとから「菩薩」とたたえられた行基の偉大な宗教的人格に淵源していたとも考えられるのです。

    第3期は天平13年(741)から死没する天平勝宝元年(749)までの期間です。《民衆の偶像》となった行基に対して、律令国家はもはや往年のごとく指弾できるはずはなく、むしろ行基の力を国家の側にすくいあげようとして、かれの宗教活動を公認したのです。天平13年(741)恭仁(くに)京の造営を始めた聖武天皇は、当時近くの泉橋院(道場の一つ)に滞在して、木津川に泉大橋をかける事業を指揮していた行基と歓談されたと伝えます。天皇は天平15年(743)盧舎那(るしゃな)大仏造立の詔(みことのり)を発して、行基を勧募の役に登用しました。大仏の造営には、功徳(くどく)を広く世界に及ぼすために、富と権勢をもつ天皇ひとりの事業とせずに、多くの人民に協力を求めるおいう形をとらせたのです。行基はさっそく多くの弟子等を率いて勧誘にまわり、2年後の天平17年(745)には最高位の大僧正に任ぜられました。

    しかし、天平勝宝元年(749)に82歳で没する最晩年の数年、行基の活動は明らかではありません。おそらく病気がちで、民衆教化の先頭に立つことが少なかったのでしょうか。だが、そのことは、行基の生涯の輝かしさを損なうものではありません。行基が歴史に刻んだ最大の功績が、伝道と社会事業の一体性にあるからです。

    とりわけ後世にまったく類例を見ないほどの規模と多様な社会事業の思想的な根拠は、何であったのでしょうか。大ざっぱにいうと、大乗仏教の《利他行》の実践ということですが、その思想を求めるとすれば、福田(ふくでん)思想が考えられます。福田とは、初めは敬い仕えれば大きな幸福を生み出す田という意味で仏や僧を指しましたが、次第に語義が深まり、憐みの心を起こして救済する行為をも言うようになります。そして七福田とか、八福田とか、例示する数が増えるにともなって、福田思想そのものが弱者救済の事業の意味に転じていったのです。

    ここで仏教史としてより重要な点は、大乗仏教の神髄である民衆の苦しみを救済する利他行の実践に。その生涯をささげたことです。こうした視点がなければ、行基が時の人より菩薩と仰がれた理由を見失ってしまうことになると思われます。