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  • 奈良時代が生んだ民衆の偶像・行基は、天智7年(668)河内国大鳥郡(現・堺市)に生まれ、父を高志才智(こしのさだち)、母を蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といい、父母ともに百済)くだら)系氏族であります。とりわけ父方の高志氏は、西文(かわちのふみ)氏の一族で、つねに仏教文化を先取りした渡来系の氏族でありました。

    行基は天武11年(682)15歳のとき飛鳥の法興寺で出家し、唐から法相宗を伝えたばかりの道昭に師事しています。師の道昭は。法興寺で弟子を養成する一方、「天下に周遊して、路傍に井を穿(うが)ち、諸(もろもろ)の津の済(わたり)の処に船を儲(もう)け橋を造る」(『続日本紀』)という活動を展開した高僧で、行基がのちに社会事業をおこなったのは、この道昭の感化を受けたものと考えられます。そして行基は法興寺から新建の薬師寺へ移住しました。

    法興寺や薬師寺は大安寺とともに、この時代の国家仏教を推進させた国営の大寺院で、律令体制に奉仕する官僧たちの研修場でありました。すなわち行基は官僧としてスタートを切り、法興寺や薬師寺で、新来の仏教学である法相宗の学問を修めたのであります。ところが、行基は慶雲元年(704)に薬師寺を出て故郷に戻り、ついで生駒の山房に移って、山林修行に励みます。この間、おそらく父母と死別したものと考えられます。

    それまで平坦な官僧コースを歩んできた行基は、人生の大きな転換を迎えたと思われます。山林修行を通じて人生の苦悩を省察し、社会の現実を直視することによって、やがては山を下りて民衆救済のための宗教運動をおこすことを思い立ったのではなかろうか。鎮護国家に邁進する国家仏教では救いの対象にすらない民衆が無数に存在し、学問仏教では心の充足感が得られない人生の苦悩が無限にあることに目覚めた行基は、かれが歩んできた官僧の立場を放棄し、なによりも民間にとけこみ、人びとに仏恩の広大なることを示し、仏の教えを伝える決意を固めたものと思われます。

    行基の宗教活動の成果は、道場49院・橋6所・樋(ひ)3所・布施屋9所・船息(せんそく)2所・池15所・溝7所・堀川4所・直道1所だといわれます(『行基菩薩伝』など)。なお、樋とは用水路、布施屋とは都に物資を運ぶ人びとを収容し、医薬や食料を供給する施設、船息とは港、直道とはまっすぐな道路をいいます。これらの所在地は畿内にかぎられましたが、伝道のための「道場」(小寺院)はもちろん、広域にわたる灌漑と交通の施設を、相互に関連性をもたせ、かつ一体的に造営しています。『続日本紀』に、「親(みずか)ら弟子等を率いて、諸(もろもろ)の要害の処に、橋を造り陂(つつみ)を築く。聞見の及ぶ所、みな来りて功を加え、不日にして成る。百姓(ひゃくせい)今に至るまで、その利を蒙れり」と特筆しているのは、行基の造営した社会施設から民衆がこうむった恩恵がどれはど大きかったか、を物語っております。

    さて、行基の民間における宗教活動は、ほぼ3期に分かれます。まず第1期は、民間伝道を始める霊亀2年(716)から神亀2年(725)までの期間です。生駒の山房を去り、平城京のひざもと大和国で民間伝道に入ります。かれが始めたのは、街から街へ、村から村へ、弟子等(信者)を率いて乞食(こつじき)行をして、拠点となる地に道場をたて、民衆を教化することでありました。ところが、行基の活動が異様であったのか、たちまち律令国家から異端視されます。養老元年(717)、「いま小僧行基ならびに弟子等、街衢(ちまた)に零畳(おちかさな)りて、妄(みだ)りに罪福を説き、……歴門に仮説して強いて余物を乞い、……道俗擾乱して四民業を棄つ。進みては釈教に違い、退きては法令を犯す」という詔が出たのです。行基を名指しで非難しております。かれの宗教活動が指弾をうけたのは、和銅元年(708)からの平城京造営などを契機に、律令体制の矛盾があらわになったからです。しかし、行基はいぜん民衆の支持を得て、活動を続けますが、やがて大和国を去り、摂津・河内・和泉・山城の各地に転じて行くのであります。(つづく)