• 最近の投稿

  • カテゴリー



  • 天平5年(733)の遣唐使にしたがって入唐した栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)の二人は、ある使命をおびていました。それは伝戒師(正統な戒律を伝授する高僧)を日本に招請することにありました。栄叡と普照は入唐後、とりあえず洛陽にいた道璿(どうせん)に請うて、遣唐使の帰国船で先に日本へ向かわせました。道璿は天平8年(736)、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)などとともに来朝しました。道璿がわが国で戒律を伝授した形跡はみられません。おそらく正式な授戒の式を行なえる僧が足らなかったからだと思います。

    唐に10年近く留まった栄叡・普照らは、次の遣唐使の到着を待たずに、自ら手だてを講じて早く帰国しようと考えました(当時は約20年ごとに遣唐使が派遣されていました)。天宝元年(742)揚州の大明寺を訪れ、その地域で名声を博していた鑑真を日本へ招請しようとしたのです。栄叡と普照は、鑑真の足下にひざまずき、渡日を懇願しました。日本への航海は危険だとためらう弟子たちを前に、鑑真は「これ法事の為なり。何ぞ身命を惜しまんや。諸人去(ゆ)かざれば、我れ即ち去くのみ」と、敢然と渡日を決意したと言います(『唐大和上東征伝』)。

    細かな経過は省くとして、鑑真の一行は、渡航を企てること5回に及んだが、あるいは官憲に密告する弟子たちの妨害に遇い(第1・3・4回)、あるいは風浪に難破しました(第2・5回)。5回目の渡航は、天宝7年(748)の6月に揚州を出帆しました。しかし座礁をくりかえし、10月に大海に出るや、たちまち強風にあおられ、高波にのまれ、漂流すること14日、遠く海南島に漂着しています。翌年、中国本土に渡り、内陸部を縦断する長旅の途中の、天宝9年(750)に栄叡が病没し、鑑真もまた失明したのであります。ここに10年近くかけた日本への渡航計画はついに挫折しました。

    天宝12年(753、わが天平勝宝5年)11月、ちょうど入唐中の遣唐使が鑑真を密かに出航させることに成功しました。鑑真は、普照および弟子の法進(はっしん)・思託(したく)ら24人をともなって、翌年の天平勝宝6年(754)2月、平城京に入りました。艱難(かんなん)辛苦の前後12年をささえたものは、「戒法をつたへんが為に諸高徳を請ひて将(まさ)に本国に還らんとす」る栄栄・普照らの悲願と堅固な意思、そして彼らの応えた鑑真の「法の為に」は身命を惜しまない不屈の熱意であったと言えます。

    鑑真は早速、東大寺の大仏の前に戒壇(授戒の儀式をおこなうための特設ステージ)を立て、授戒を行ないました。ただこの時、わが国に仏教界の一部で、鑑真が渡日した目的を認めようとしない動きがあたようです。鑑真が渡来する以前に、わが国で「受戒」が行われていたことは明らかな事実であります。だが、受戒の形式はかなり便宜的に省略したもので、経典に定める正統な儀式作法をともなわなかったのです。鑑真の渡来を契機に、すでにわが国で慣習となって定着していた従来の受戒形式の当否をめぐり、論争が起ったと見られます。

    それでは、鑑真の伝戒師としての役割はどこにあったのでしょうか。鑑真は来朝するや、「今より以後、授戒伝律は一に和上(わじょう)に任せん」という詔をたまわっています。《授戒権》を得た鑑真は、戒壇を設け、三師七証(戒を授ける戒和上、儀式作法を指導する2人の先生役の僧と7人の立ち合いの僧の、合わせて10人)によって行なう正統な儀法を確立し、受戒の権威を高めました。この点にこそ、伝戒師招請と鑑真渡来の歴史的意義があるのです。

    鑑真は、東大寺の一角(唐禅院)に住み、戒律を講じ、かつ授戒する日々を送ります。2年間ほど仏教行政を担いますが、「大和上」の称号を授かり、ふたたび戒律の伝授に専念します。天平宝字3年(759)東大寺の唐禅院を出て、新しく「唐律招堤(とうりつしょうだい)という私寺を建てました(後に官寺となって、「唐招堤寺」と改称)。晩年の鑑真は、弟子の中で法進と思託が対立するなど、一抹の寂しさを味わいます。しかし、彼の弟子、またその弟子が戒律を相(あい)伝え、ようやく日本の戒律が厳正になっていくさまを察して、むしろ安堵感を覚えたに違いありません。

     

    日本の文化史の上で、古代的と近世的の分水嶺が中世にあることは自明の事実ですが、私は二つの変革期があったと思います。その一つの変革期は南北朝だと思います。南北朝時代は建武3年(1336)から明徳3年(1392)までの約60年間を指します。京都の持明院統の朝廷(北朝)に対して吉野などに大覚寺統の朝廷(南朝)があり、相互に戦っていました。両朝の争いは天皇や貴族、武士だけでなく民衆をもまきこみ、国家社会に大きな変革をもたらせました。奈良・平安から続く荘園制や寺社勢力が衰え、古代文化の担い手である貴族さえもが多くがこの内乱で死没し、代わって武士が能や狂言、連歌など土着の文化の担い手となりました。この新しい文化は現在まで「古典」として継続しています。

    次の変革は応仁・文明の乱であります。応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで文化の中心地の京都を焦土と化しました。乱の後、室町幕府・守護大名の体制と荘園制は崩壊へ向かい、下克上の戦国時代を奏でる序曲でありました。古代的権威がまったく失墜し、近世的世界が胎動します。この第二の変革期を生き抜いた一人の貴族がいました。一条兼良(かねよし)であります。

    兼良は応仁元年、乱の勃発にさいして二度目の関白に任ぜられますが、まもなく邸宅を焼かれたので、翌年に興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん・兼良の五男)を頼って、奈良へ避難します。文明2年(1470)に関白を辞した後も奈良に留まり、ようやく京都へ戻ったのは、世の中が静まった文明9年の歳末でありました。兼良は文明14年(1482)4月、80歳でその生涯を閉じましたが、当時の貴族の日記に兼良の死を悼む文言が散見します。

    「日本無双の才人なり。已(すで)に日月の明かりを失ふか」(『十輪院内府記』)とか、「天下のため、朝家のため、歎き存ずるの外に他なし。‥‥‥和漢の御才学比類なし。‥‥‥公家の滅亡の時刻到来か。悲しむべし、悲しむべし」(『宣胤卿記』)とか、「天下才人、近代無双の名誉の御事なり。世以て惜しみ奉る。‥‥‥本朝五百年以来、この殿程の才人御座あるべからずの由、有識の人々沙汰せしむ」(『長興宿祢記』)とあります。兼良に対して、天下無双の才人、和漢の才学比類なし、という誉め言葉は、決しててらいではなく、有職故実はもとより、神話・律令・和歌・訓詁などの諸学に通じ、古今まれに見る学識の持ち主でありました。

    「倭漢の学識、古人に愧(は)ぢず、自ら才気を負(たの)む」というから(『梅庵古筆伝』)、こうした和漢の学識には、当人も自負するところがあったようです。五百年以来の才人との風評は,兼良の「家礼」(けらい・摂関家に出入りする人)である小槻長興(おづきながおき)が日記に書き留めているので、案外と当人からそう聞いていたかも知れません。だとすれば、兼良が意識した五百年前の才人は誰を指しているのでしょうか。『続本朝通鑑』に「兼良自ら謂(い)ふ」とする面白い逸話を伝えています。以下に概略を記します。

    私(兼良)には菅丞相(かんじょうしょう・菅原道真)より勝るものが三つある。彼は右大臣、私は太政大臣。これが第一。彼の家門は微賎、私は累世の摂関家、これが第二。彼が漢土のことを知るのは唐代以前、本朝のことを知るのは延喜以前だけである。ところが、私が和漢の古きを知るのは、これに加えて、唐代以後・延喜以後のことに及んでいる。これが第三.もし今より百年後の世人が彼より私を尊ばなければ遺恨に思う、と。そこで、当時の人が兼良を招待する際には、菅丞相の画像(渡唐天神像のことか)を床(

    とこ)の上には掛けなかった。もし偶見すれば、なぜ我が頭上に彼がいるのかと怒った。

    五百年前の才人とは菅原道真のことですが、兼良が「学問の神」とあがめられる道真より優れていると自慢するのは、一向に構いません。しかし、問題は第3の点です。和漢の故実(歴史)に関する知識について、延喜3年(903)に死去した道真が「和」は延喜以前、「漢」は唐代以前のことしか知らないのは当然であります。五百年来の才人との世評が、道真が知りようにも不可能な後代に属する学識を誇ることに存するのなら、兼良は才気を豪語する鼻持ちならぬ人物にすぎません。兼良の論法にしたがえば、彼が死去した文明以後(中国では明代以後)の歴史を学びえる後世の人は、ただそれだけで兼良より才気が勝ることになります。

    ところで、法然上人は「後学畏(おそ)るべし」という言葉を残しておられます。学問の世界では、先行の学説は後進の学者によって必ず訂正されるのです。一条兼良が才学において菅原道真を超えたと自負したならば、同時に何年か後の才人に超されると覚悟すべきでして、摂関家に生まれた貴族の慢心が見え隠れします。

     

     

     

     

     

    毎年のお盆には、私は坊主の端くれとして、檀家さんの棚経(たなぎょう)にうかがいます。その時、仏壇まわりの飾りをお盆向きに改める家は、京都の市中では随分と少なくなりました。六道珍皇寺へ精霊(しょうりょう)を迎えに行く人も年ごとに減っているかに聞きます。京都だから古来の伝統的な習慣を多く残していると考えるのは、実は単なる思い込みではないでしょうか。都市の民俗は、あるものは固守され、あるものは廃れて継承されなくなる、――最近、このように感じながら、江戸初期の京都の年中行事や民俗を記した『日次紀事(ひなみきじ)』という本を読みました。

    盂蘭盆会(うらぼんえ)について、7月1日条に「今日より十五日に至るまで、俗に盂蘭盆といふ。また専ら盆と称す。諸寺院門前の樹頭、或は別に柱をた建てて、以て高く灯篭を懸く。毎夜灯火を点ず。これを上げ灯籠と称す」と書かれています。この『日次紀事』はすべて旧暦で書かれおり、現代の京都ではお盆を8月に行ないますが(正しくは月遅れのお盆と言う)、私は寺院の門前に「上げ灯籠」をかけているのを見たことがありません。また月末の条に、「この月、朔日(ついたち)より十五日に至るまで、諸寺院に於て施餓鬼の法事を修す。これを盂蘭盆会といふ」ともあります。お盆に施餓鬼(せがき)はつきものですが、現在、市中の浄土宗寺院では、お盆の施餓鬼を営んでおりません。

    14日条にも盂蘭盆会として、「今日より十六日に至るまで、人家棚を設け、各位の牌を安んじ、盂蘭盆会を修す。‥‥‥その家の宗門の僧徒、来りて経を牌前に誦す。これを棚経と称すなり」とあります。飯器を白木の三方やヘギに載せて祭るともあります。朱塗りのお膳を用いることはなかったのです。私などは、棚経は交通の事情もあって、8月の早い日時から檀家さんを回っています。

    京都の精霊迎えとして著名な六道参りは、9日条に「男女鐘を撞(つ)きて聖(精)霊を迎ふ。各(おのおの)槙(まき)の枝を買て携へ帰る。俗に伝ふ、今日聖霊、槙の枝に乗じて来ると。これ附草(つきくさ〉・依木(よりき)の義か」と記しています。附草・依木とは霊魂がとりつく草木のことです。年々に減少するとはいえ、六道参りの人はいます。迎え鐘をつくことを知っていても、祖霊がよりついた高野槙を持ち帰って精霊棚に供えるという習慣がわかる人は多くないのです。

    お盆の民俗が時代とともに変貌するのは、嘆かわしいことではありません。寺の門前に灯籠が点じられなくても、あるいは白木のヘギが朱塗りのお膳に変わろうとも、祖霊を迎えて供養する気持ちのある方が肝心なのです。ところが、民俗を支える庶民の考えはどうでしょうか。

    7月末条に、「この月、公武両家、各尊親を饗応せらる。これを生身魂(いきみたま)といふ。或は生き盆と称す。地下(じげ)の良賤もまた然(しか)り」とあります。身分の上下を問わず、お盆の月には両親にご馳走をもてなし、これを「生身魂」あるいは「生き盆」と称したのです・祖霊に飲食物を供えるのも、生きている両親をもてなすのも、ともに孝養心の現れですが、シニミタマ(死身の霊魂)に対してイキミタマ(生身の霊魂)と称している点が面白い。食うや食わずの人が多かった江戸期なら、死んでから供えてくれるより。生きている今に食わせてくれ、という悲痛な声が聞こえて来そうです。それをイキボンと呼べば、死者のためのお盆というより、生者のためのお盆となってしまいます。

    信心うすき現代では、お盆は《お盆休み》と同義になっています。お盆前に、ある未亡人の檀家さんが「お盆は、孫とディズニーランドにいきますんで、和尚(おっ)さん、お寺で拝んどいとくれやす」と棚経を断ってきました。死んだ亭主の精霊と一緒にいるよりも、かわいい孫とお盆休みを過ごす、これこそ生き盆ではないでしょうか。

    日本霊異記(りょういき)は奈良時代の仏教説話を集めた本ですが、単純な因果譚が多い中で、《蘇り》や《転生》といったまことに霊妙な話を収めています。《蘇り》の典型は、死後何日かたって蘇生し、閻魔王(閻羅王ともいう)がいる冥界(地獄)での体験を語るという冥界往来の説話です。《転生》の典型は、他人の物を盗んだり、負債を償わずに死ねば、牛に生まれ変わるという話です。人が牛のほか、犬や猿、あるいは蛇に《転生》する話もあり、それなりの罪業(ざいごう)をあげています。善業によって人が人に《転生》する場合もあります。次に紹介する話は、《蘇り》と《転生》の区別がつかない不思議な話なのです。

    ――讃岐国山田郡(現・高松市)に布敷臣衣女(ぬのしきのおみきぬめ)という人がいた。衣女は急病にかかり、山海の珍味を門の左右に供え、疫神にご馳走した。衣女を召しに来た閻魔王の使いの鬼は、走り疲れていたので、供え物を見て、こびるように食べた。鬼は馳走を受けた恩返しに、鵜足(うたり)郡(現・丸亀市)に住む同姓・同名の女を身代わりに連行していった。ところが、閻魔王に別人であることを見破られて、鬼は隠しきれず、仕方なく山田郡の衣女を召し連れてきた。鵜足郡の衣女は、家に帰ると、三日の間が過ぎていて、すでに火葬され、その体はなかった。鵜足郡の衣女は、再び閻魔王の所へもどって、依りどころとなる体を失ったことを訴えた。閻魔王はまだ残っていた山田郡の衣女の体を得よと命じたのである。そこで、鵜足郡の衣女は、山田郡の衣女の身となって蘇った。たちまち衣女は。わが家は鵜足郡にあると言い出した。山田郡の父母がお前はわが子だというのを聞き入れず、衣女は鵜足郡の家へ行った。鵜足郡の父母は衣女を見て、お前はわが子ではない、わが子は焼いた、と拒んだ。しかし、衣女は閻魔王の命令によることを詳しく述べた。両方の郡の父母は衣女の話を了解し、衣女は二つの家の財産を相続した、という――(中ノ二五)。

    『日本霊異記』のタイトルは「閻羅王の使いの鬼、召さるる人の饗(あえ)を受けて、恩を報ずる縁」となっており、“蘇った”のは山田郡の衣女のようです。この話を出典とする『今昔物語』には「鵜足ノ郡ノ女ノ魂、山田ノ郡ノ女ノ身ニ入ヌ。活(いき)テ云ク…‥‥」とあって(二〇ノ一八)、“蘇った”のは鵜足郡の衣女のようでもあります。鵜足郡の衣女の霊が山田郡の衣女の遺体に入ったわけですが、“蘇った”のは誰とみるのか、取りようによっては鵜足郡の衣女でもあり、山田郡の衣女でもあります。

    この話は、主人公の屍に別人の霊魂が宿った、という所が何とも奇妙で、しかも話のミソは同姓・同名にあります。ややこしいからA子・B子とよびます。山田郡の衣女(A子)の身代わりとなった鵜足郡の衣女(B子)に視座を置けばどうなるか。B子が冥界から戻ってみると、身を焼かれて、「体を失ひて依りどころなし」となり、蘇生することができなかったのです。再び冥界にかえり、閻魔王から「そ(B子の体)を得て汝が身とせよ」と命じられ、他人の屍を借りることで、B子の霊魂は依りどころを得たのであります。観点をかえれば、B子は“蘇り”ではなく、A子に“転生”したとも言えます。

    そもそも“転生”の主体は何か。『日本霊異記』は「それ神識(たましひ)は業の因縁に従ひ、或は蛇・馬・牛・犬・鳥等に生まる」とコメントしております(中ノ四一)。輪廻転生する主体は、まさしく霊魂でありました。ただ何に転生するかを決めるのは、霊魂そのものではなく、因果の理法が働くのであります。先の話では因果の理法が明確でないが、A子自身がよみがえったかに見えます。しかし霊魂の去就からすれば、B子がA子に生まれ変わったとみなさざるを得ないのです。さて皆さんはどう思われますか。

     

    この人の名前は旻(みん)と言い、大化の改新に「国博士」として登場します。歴史の教科書に出てくるから、無理やり覚えさせられて、それ以来、おそらく生涯この人の名前を書くことも、また見ることもないであろうと思います。それほど珍しい名前です。僧の名前は大抵2文字ですから、僧旻と通称します。

    かれが歴史の舞台に登場するのは、推古16年(608)のことで、遣隋使小野妹子に伴われて初めて隋に入った学生・学問僧8人の中に、「新漢人日文」と見えます(『日本書紀』、以下同じ)。新漢人とは「いまきのあやひと」と読み、6世紀前半期に百済から渡来した人びとを指します。「日文」はおそらく「旻」の1字では僧名にはならないと判断し、『日本書紀』の書写の際に2字に分解したのではないでしょうか。中国に在留すること24年、舒明4年(632)遣唐使犬上御田耜(みたすき)とともに帰国しました。

    舒明9年(637)に、大きな星が雷に似た音をたて、東から西へ流れたのを、時の人は流星の音だといい、また地雷だといったが、僧旻は「流星にあらず、天狗なり。その吠える声は雷に似ている」と説明しています。同11年(639)、長星が西北の空に現れた時、かれは「これは彗星で、これが現れると、飢饉になる」といっております。これらの逸話は、旻が天体の異常現象に関する知識をもっていたことを示しております。

    皇極4年(645)6月、有力皇族の中大兄皇子は、皇族中心の集権体制をめざして、中臣鎌足とともに、権柄をにぎる蘇我本宗家の打倒をはかり、蘇我蝦夷(えみし〉・入鹿(いりか)父子を滅ぼしました。このクーデターを乙巳(いっし)の変といいます。変の後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣、そして旻と高向玄理を国博士とする新政権が発足したのです。新政権はさっそく「大化」という年号を制定しました。

    新政権が発足した2か月後の大化元年8月に、僧尼を法興寺に集め、孝徳天皇が蘇我氏に代わって仏教を興隆していく旨を宣言し、十師を任じて僧尼の教導に当たらせています。十師とは10人の高僧をあて、仏教界を統制する機関でありました。旻はもちろんこの十師の筆頭の位置にあったと考えられます。大化5年(649)に天皇の詔をうけて、国博士の高向玄理と旻は「八省・百官」を置いたとあります。八省とは律令制の中務(なかつかさ)省・式部省などの総称で、百官とは諸官司またはそれらの官人の総称です。このときに律令制にもとづく官司・官人制が出来たとは思えません。おそらく『日本書紀』編者の潤色でしょうが、大化前代の伴造(とものみやつこ)-品部(しなべ)制を下敷きに、朝鮮諸国や中国南北朝の制度を参考しつつ、体系的な官司・官人制のプランを提示したものであろうと思われます。

    大化6年(650)に長門の国司が白雉を献上したとき、旻は中国における古典を駆使して白雉の出現が「休祥」(よきさが、吉祥の意味)に当ることを述べ、天皇は「聖王が世に出て、天下を治める時に、天こたえて祥瑞を示す」と詔を発して、白雉元年と年号を改めています。すぐれた人主(帝王)が現れて人民を統治していることに対して、自然界の突然変異がもたらす珍しい様ざまな現象(祥瑞)を、天が感じて応じた賜ものとみなした「天人感応説」に基づく思想であります。逆に暴君の場合、天が懲らしめのために、人民に危害を加えるような自然現象(災異)をもたらすのです。

    こうした祥瑞にしろ災異にしろ。天人感応説は未来に向かって言うときは、一種の予言となります。大きくは讖緯(しんい)思想ともいって、讖書や緯書と称した未来の吉凶禍福を予言する典籍として漢代に流行しました。旻は当時この讖緯思想をよくする知識人として重きをなしたのです。

    白雉4年(653)5月、孝徳天皇は、病に伏した旻の房に行幸し見舞っておられますが、6月に没しますが。天皇をはじめ、皇極上皇や皇太子中大兄皇子らが旻の喪を弔わせています。『日本書紀』には、旻は阿曇(あずみ)寺で病臥し、天皇が行幸して、旻の手をとって、「もし法師が今日死んだならば、朕は明日死ぬであろう」とまで仰せになったという一説を載せています。いかに天皇が旻を信任されていたかが知られます。旻の没後、皇太子中大兄皇子が孝徳天皇を難波に置き去りにして、母帝の皇極上皇らをともなって大和の飛鳥に戻るという事態が生じますが、天皇と皇太子の政治的な隙間を埋めていたのが旻であったと思われます。