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    天平12年(740)、藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしたので、橘諸兄は政局の打開策として、恭仁(くに)京への遷都を断行しました。そして翌年の天平13年(741)、この新京で国分寺建立の詔(みことのり)が発せられたのです。連年の不作と疫病の流行による社会不安、広嗣の乱による政治的動揺を、仏教の、ことに金光明最勝王経に説く四天王による国土擁護の思想で収束しようと図ったのです

    国分寺は中国の諸州官寺制をまねた寺院制度で、唐の仏教を移植しようとする意欲の強かった者が献策したと考えられています。玄昉が発願した写経の奥書に「聖法の盛なること、天地と与(とも)にして永く流(つた)え、擁護の恩、幽明に被(こうむ)りて恒に満さしむ」とある一句が、国分寺建立の勅にも同文で見えるので、国分寺制の献策者は玄昉であったと推測されます。

    ところで、恭仁宮の造作がいまだ完了せざるうちに、聖武天皇は近江に紫香楽(しがらき)宮を造ってしばしば行幸し、その一方で摂津の難波を皇都に定めるなど、宮都を転々とした〈彷徨〉の数年を経たのち、天平17年(745)に平城京へ還都しました。この間、政権を掌握する橘諸兄を脅かすごとく藤原仲麻呂が台頭し、玄昉の立場は微妙になってきます。

    天平15年(743)の盧舎那(るしゃな)大仏造立の詔が出されました、これまた玄昉の献策だったと思いますが、大仏造立の勧募の役に、当時民間で布教していた行基が登用されるや、玄昉の演じる場面は暗転しました。諸兄によって僧綱の印を召し上げられ、僧綱首座の玄昉は権限を制約され、天平17年の行基の大僧正任命は、玄昉にとって不快な人事であったに違いありません。行基を起用した人物がだれであれ、その意図が何であれ、僧正の上に位置する大僧正の存在が、玄昉を抑える働きをなしたことだけは確かです。

    平城還都の後、玄昉は、かれを信奉していた聖武天皇・光明皇后とも、かれの献策を入れていた諸兄とも、次第に懸隔の状況に追い込まれていったと推測されます。そしてこの年の11月、ついに都から追放、筑紫の観世音寺に移されて、翌年の天平18年6月、失意のうちに「流罪地」で死去しました。

    「世相伝えて云う、藤原広嗣の霊の為に害せらると」。正史の『続日本紀』がこのように書き留めたのは、貴族社会の陰湿な風土を表しています。玄昉が僧侶の身でありながら、政治抗争の渦中に身を置いたのは、非難されても致し方ないが、かれが仏教を核とする天平文化を開花させた役割は看過できないと思われます。

    貴族社会に突如登場し、政治に参画すること10年にも満たず、遠く西国の地に逝った玄昉(げんぼう)は、終焉を全うしなかったゆえに、世評は芳しくありません。しかし、かれと並び称される道鏡が女帝の寵愛をうけ、自ら権力をにぎり、皇位まで狙ったのに対し、玄昉は唐留学の俊秀として橘諸兄(もろえ)に用いられた政治顧問であって、かれが仏教文化に寄与した功績は決して小さくないのです。

    玄昉は養老元年(717)、遣唐使にしたがって入唐、かれと同行した留学生に吉備真備(きびのまきび)や阿倍仲麻呂がいました。彼らはいずれも優秀な若者でした。玄昉は法相宗の学問を修め、玄宗皇帝より紫の袈裟を許されています。留学を終え、再び日本の土を踏んだのは天平6年(734)、帰朝も吉備真備と一緒でしたーなお、阿倍仲麻呂は唐に留まりますー。玄昉は経典5千余巻や諸仏像を、真備は礼楽の典籍器具や暦書などを、それぞれ朝廷に献上しました。玄昉と真備がもたした文物や新知識が天平文化を開花させたことは疑えません。

    玄昉は天平9年(737)、僧正となり、内道場に置かれます。仏教界を統括する僧綱という機関の首席である僧正は、僧都(そうず)や律師から昇任するのが通例で、いきなり僧正に任ぜられるのは、明らかに抜擢人事です。この人事は、藤原武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の藤原四子が相ついで死去した直後のことで、新たに政権を担った橘諸兄が登用したと考えられますが、聖武天皇もしくは光明皇后が強く推薦したとも思われます。内道場とは宮廷内の仏教施設のことです。平城宮内の殿舎の位置は現在のところ、発掘調査で確認されていません。

    玄昉は光明皇后が住む宮殿に伺候していました。この年の暮、聖武天皇の生母である藤原宮子が光明皇后の宮殿に行き、玄昉と面会されました。宮子は天皇を生んでより長らく憂鬱に悩み、天皇とさえ相まみえることがなかったのに、玄昉がひとたび看るや、憂鬱がなおり、初めて天皇と面会された言います。玄昉が看病して天皇の生母の憂鬱を見事になおしたのです。これを契機に玄昉の名声は高まり、聖武天皇ご一家の信仰を得て、政教両界にゆるぎない地位を築いていったと考えられます。

    天平12年(740)、大宰府の次官に左遷されていた藤原広嗣(宇合の子)は時政の得失を指し、天地の災異を述べ、もって玄昉と吉備真備を除かんことを求め、挙兵しました。広嗣は自らを「大忠臣」と称し、官軍に向かい、「広嗣敢て朝命をふせかず、ただ朝廷の乱人二人を請うのみ」と叫んでいます。しかし、広嗣にとって反逆者の汚名は免れず、藤原氏による政権奪回の企図はついえました。

    広嗣が「朝廷の乱人」と弾劾した玄昉と真備は、貴族の世界から見れば〈部外者〉で、彼らが唐留学の知識人というだけで、権力の中枢には入り込んできたことへの反発が貴族の間に存し、広嗣に同情するものがいたと想像されます。

    人は死ぬまで努力して事をなすべきであり、死んで始めてその人の功績が分かる、という意味の言葉が、「棺を蓋(おほ)ひて、事定まれり」であります。生涯を終えて棺の蓋(ふた)を閉じた瞬間から、生前の行ないに対する評価が始まり、やがて厳しい批判にもさらされることにもなるのです。

    中国における人物論は、その伝記にあらわれます。伝記の作者は、その人の事績を淡々と述べた後に、必ずその人に対する的確な評価を下します。ほめたたえることもあえば、ぼろくそにけなすこともあります。ここが伝記作者の腕の振るい所であります。

    日本における伝記は、故人を称賛することばかりで、欠点をあげつらうことは滅多ににありません。「死者に鞭打つ」ことを嫌う国民性のゆえか、新聞や雑誌に載る有名人の「評伝」を見ても、悪行の記事はお目にかかりません。

    ところが、わが国の古代の文献を読んでいると、歯に衣(きぬ)着せず物いう調子の人物評に出会うことがあります。承和10年(834)に70歳でなくなった藤原緒嗣(おつぐ)の人物評価は、まことに面白い。藤原緒嗣という人は、左大臣の官職を得て、天長2年(826)から死去するまで、17年間も朝廷の首班の地位にありました。

    『続日本後記』の彼の評伝は辛らつに書かれています。官歴を述べた後に続く人物評は、「緒嗣は政治に明るく、労せずよく国家を治めた。国の利害に関わることは、すべて天皇に意見を申し上げた」と、公卿としての治績を称えています。「但し」と続く後段は一転して、「両人から一つのことを聞く場合、先の人が語る所が冗談で、後の人が言う所が真実であっても、先に話された方を強く信じ、後で説かれた方を受け入れない。こうした偏執のため、時の人からそしられた」と酷評しているのです。原文では「先談を信じ、後説を容れず」と書かれています。

    ところで、緒嗣はこのように酷評される人物だったのでしょうか。桓武天皇に信頼され、青年貴族として民生と地方行政に意を注いています。延暦24年(805)、天下の徳政を論じ、緒嗣は「まさに今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。この両事を停(とど)むれば、百姓安んぜん」と主張しています。

    私は大学教授の現役時代、入試にこの史料を出して、「軍事」とは何か、「造作」とは何か、を問いました。もちろん軍事には(ア)隼人征討(イ)蝦夷征討(ウ)新羅征伐、「造作」には(ア)平城京建設(イ)長岡京建設(ウ)平安京建設、といった選択肢つきですが、読者の皆さん方はできたでしょうか。[解答は文末]

    さて、藤原緒嗣にかぎらず、わたしたちは「先談を信じ、後説を容れず」という過ちを犯しがちになります。現在、情報は瞬時に多量に伝達されるから、第一報を重んじ、第二報以下を軽んじる傾向にあります。だが、情報がリアル・タイム化されようとも、それが文字であれ、また言葉であれ、情報には、必ず発信者の主観が混じるものです。情報から発信者の主観を除去しようと思えるば、同じ事に関する情報を数多く集め、微妙な差異の中のから真実の要素を見出し、体験的に情報の客観性の精度を高める以外に方法はないと思います。

    解答 軍事 イ 造作 ウ

    高校の教科書などに、わが国に仏教が伝来したのは、西暦538年で、一説に552年だと注記しています。それはそれで正しいのですが、どうして二説あるのか、詳しくは触れていません。

    百済の聖明王が仏像や経典を献上した時をもって「仏教公伝」とし、『日本書紀』は欽明天皇13年(552)とし、『上宮聖徳法王帝説』など他の文献では欽明天皇7年(538)とするのです。『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とでは欽明天皇の即位年が異なっており、かえってややこしくなるので言及しませんが、両説は拠って立つ史料が違うことに注意しておいて下さい。両説の間で14年の差があり、早くからいずれが正しいのか、論争が重ねられてきました。最近では百済王の即位年の異説にもとづいて、548年だという新説さえ登場する始末です。私は仏教公伝の年次論に関して、次のような考えをもっております。

    すなわち、仏教の伝来の公的な最初を「公伝」と見るかぎり、それは一回きりのことであって、年次に異説があれば、どちらか一方を取り、他方を否定しなければならなかったのです。しかし、仏教の伝来といっても、内実は仏像・経典・僧侶などの献上でありました。それがある一定の期間に何回あっても差し支えないと思います。したがって、538年にも552年にも、百済から仏像等が送られてきたと考えてもよいのす。また、この両年以外にも、仏像等が百濟から献上されてきた可能性は高いのです。

    6世紀中ごろの百済は、政治情勢や国際関係が緊迫しており、日本に軍事援助を求める代償として、先進文明の象徴たる仏像や経典を何度も献上してきました。この外交ルートにのった仏教の伝来を、公的な伝来という意味で「公伝」と表現するなら、その年次は幅をもたせて、6世紀中ごろとしておくのが妥当でしょう。

    百濟から送られてきた仏像を前に、欽明天皇は豪族たちに礼拝すべきかを問いました。ここに蘇我稲目らの崇仏派と物部尾興や中臣鎌子ら排仏派の論争が起ったことは有名は話です。崇仏・排仏に関する伝承をすべて史実だとはみなせません。だが、こうした伝承の背景には、「国神」を信奉する在来の神祇信仰の立場から、新来の仏教を「蕃神」として排斥しようとする宗教的な動きが起こったことがうかがわれるのです。

    仏教は新しく渡来してきた人々や、彼らを支配下に入れて急速に勢力を伸ばした蘇我氏や、一部の開明的な氏族に信奉されるにとどまっておりました。仏教伝来時の摩擦にもかかわらず、わが国に仏教が受容されたのは、仏教がインドから西域・中国・朝鮮と伝わるうちに、それぞれの民族宗教を包摂し、当時の国際社会ですでに世界宗教の地位を確立していたからです。

    これまで漠然と暗黒の世界としか認識しなかった死後の世界について、体系的な教理に裏付けされた仏教が、現世とは明確に異質な来世観をもたらせたことで、「他国の神」に対する憧れの念を抱かせました。このように仏教は新興勢力にはとても魅力的な先進文明であり、寺院建築や荘厳な儀礼にともなう総合文化そのものでありました。

    八代将軍徳川吉宗の生母について、巷間にさまざまな説が出ております。ネットで検索しますと、和歌山市の長保寺のホームページに、「素性が知れない人である。まず名前をお由利ともお紋ともいう説があり、よくわからない。町医者の娘という説、百姓の子という説、西国遍路の行き倒れの子という説もある。つなげて考えてみれば、どこかの食い詰めた百姓女が土地を捨て娘を連れ遍路に出て行き倒れた、それを親切な町医者が看病したが亡くなった、残された子を養女にした、美しく育った娘がお城に上った、というあたりか」とあります。まったく氏素性の知れない人というのです。

    YAHOO!知恵袋のゲストアンサーに「吉宗の生母であるお由利(ゆり)の方の素性ははっきりしていません。巨勢(こせ)六右衛門の娘、京都西陣の商家の娘、西国巡礼の女が連れていた娘など様々な説がありますが、いずれにしても身分の低い出自であったようです」とあり、父の名を巨勢六右衛門という説が出ています。

    徳川将軍の事績を詳細に記録した『徳川実記』をみますと、「御母は紀伊の家士巨勢八左衛門利清の女にて、贈従二位紋子(由利)と聞ゆ」とあります(享保元年五月条)。由利ともよばれていたかのようです。しかし、利清の次男の「巨勢十左衛門由利(よしとし)」と孫の「六左衛門至信(ゆきのぶ)」がそれぞれ5000石の幕臣に取り立てられますが、この由利との混同ではないかと思います。

    お紋の方の父が紀伊藩士というのは、紀伊藩主徳川光貞の側室となって吉宗を生んだこと、弟と甥が大身の旗本となったことで、家系を飾る必要があったからだと思いますが、巨勢氏の出自は否定できません。この巨勢利清は、じつは京都大工頭の中井家の一族なのであります。

    巨勢氏の先祖のことは、『寛政重修諸家譜』に、正利――利次――利盛――利清と次第する系譜を簡単に記します。正利(1537~1610)は巨勢甚太夫といい、中井正清の父・巨勢孫太夫正吉(豊臣秀吉の大坂城を築く)の弟です。その子の利次(1580~1626)は中井正清の従弟に当たり、正清が行なった各地の造営工事を助けています。正清と利次は姓を巨勢から中井に改めております。利盛と利清についてはよくわかりませんが、巨勢至信の子孫が長香寺に奉納した「巨勢系図」にある程度のことを記していますので、ここに紹介します。

    利盛は八郎右衛門といい、慶長14年(1609) に生まれ、洛陽に浪居、茶道を好み、明暦3年(1657)49歳で死去、長香寺に葬るとあります。そして利清は八左衛門といい、寛永7年(1630)に生まれ、洛陽に浪居、姓を中井から巨勢に復し、寛文12年(1672)43歳で死去、長香寺に葬るとあります。利清の妻(お紋の方の母)は、嵯峨大覚寺宮の家臣坪井源兵衛義高の女で、名はわかりません。寛永5年(1628)に生まれ、宝永5年(1708)81歳で死去、紀州名草郡の若山(和歌山)の大立寺に葬るとあります。

    利清は2男2女をもうけ、長女はお紋の方、明暦2年(1656)の生まれ。長男は忠善。勘左衛門といい、万治元年(1658)山城国に生まれ、洛陽に浪居、元禄7年(1694)に紀伊殿(光貞卿)に召し出され、同12年(1699)42歳で死去、若山の大立寺に葬るとあります。なおこの忠善の子が至信です。次女は名も生没年も不詳。長香寺に葬るとあるだけです。次男は由利。十左衛門といい、寛文3年(1663)山城国に生まれ、元禄2年(1689)に紀伊殿に召し出され、享保3年(1718)にお紋の方のお供で江戸に下り、幕臣に列せられます。

    ここに「巨勢系図」に基づいて長々と述べたのは、徳川吉宗の生母に関する俗説の誤りを正し、真説を明らかにしたいからです。まず父親は巨勢八左衛門利清といい、一生浪人でした。母親の名は不詳ですが、坪井源兵衛義高の娘です。寛文3年生まれの由利の生国が山城となっており、おそらく夫の利清が亡くなる寛文12年まで京都にいたものと思われます。そして吉宗が生まれる貞享元年(1684)の前年までに、娘のお紋の方を伴って紀伊に移り住んだのでしょう。この時、母親は50歳前後、娘は20歳前半の年齢と推測されます。

    お紋の方(法名は浄円院)の出自について、氏素性がすっきりしないという俗説は誤りで、京都大工頭の中井家の支族、巨勢利清の娘であったことは確かです。長香寺に巨勢利清の墓碑も現存します。享保3年4月、お紋の方が江戸城二の丸へ入るため、和歌山より江戸へ下向するに当たり、長香寺の住職が伏見にてお紋の方に会うべくお供の巨勢由利の旅宿まで赴いています。『知恩院日鑑』には「長香寺儀、御先祖御牌前御由緒故」とあって、長香寺は浄円院様(お紋の方)のご先祖の位牌を祀っているという由緒がある故に、特別の計らいだというのです。

    こうした文献によっても、お紋の方の出自は明らかです。歴史の真相を探ろうとする人たちに知っていただきたく、駄文を弄しました。