貴族社会に突如登場し、政治に参画すること10年にも満たず、遠く西国の地に逝った玄昉(げんぼう)は、終焉を全うしなかったゆえに、世評は芳しくありません。しかし、かれと並び称される道鏡が女帝の寵愛をうけ、自ら権力をにぎり、皇位まで狙ったのに対し、玄昉は唐留学の俊秀として橘諸兄(もろえ)に用いられた政治顧問であって、かれが仏教文化に寄与した功績は決して小さくないのです。
玄昉は養老元年(717)、遣唐使にしたがって入唐、かれと同行した留学生に吉備真備(きびのまきび)や阿倍仲麻呂がいました。彼らはいずれも優秀な若者でした。玄昉は法相宗の学問を修め、玄宗皇帝より紫の袈裟を許されています。留学を終え、再び日本の土を踏んだのは天平6年(734)、帰朝も吉備真備と一緒でしたーなお、阿倍仲麻呂は唐に留まりますー。玄昉は経典5千余巻や諸仏像を、真備は礼楽の典籍器具や暦書などを、それぞれ朝廷に献上しました。玄昉と真備がもたした文物や新知識が天平文化を開花させたことは疑えません。
玄昉は天平9年(737)、僧正となり、内道場に置かれます。仏教界を統括する僧綱という機関の首席である僧正は、僧都(そうず)や律師から昇任するのが通例で、いきなり僧正に任ぜられるのは、明らかに抜擢人事です。この人事は、藤原武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の藤原四子が相ついで死去した直後のことで、新たに政権を担った橘諸兄が登用したと考えられますが、聖武天皇もしくは光明皇后が強く推薦したとも思われます。内道場とは宮廷内の仏教施設のことです。平城宮内の殿舎の位置は現在のところ、発掘調査で確認されていません。
玄昉は光明皇后が住む宮殿に伺候していました。この年の暮、聖武天皇の生母である藤原宮子が光明皇后の宮殿に行き、玄昉と面会されました。宮子は天皇を生んでより長らく憂鬱に悩み、天皇とさえ相まみえることがなかったのに、玄昉がひとたび看るや、憂鬱がなおり、初めて天皇と面会された言います。玄昉が看病して天皇の生母の憂鬱を見事になおしたのです。これを契機に玄昉の名声は高まり、聖武天皇ご一家の信仰を得て、政教両界にゆるぎない地位を築いていったと考えられます。
天平12年(740)、大宰府の次官に左遷されていた藤原広嗣(宇合の子)は時政の得失を指し、天地の災異を述べ、もって玄昉と吉備真備を除かんことを求め、挙兵しました。広嗣は自らを「大忠臣」と称し、官軍に向かい、「広嗣敢て朝命をふせかず、ただ朝廷の乱人二人を請うのみ」と叫んでいます。しかし、広嗣にとって反逆者の汚名は免れず、藤原氏による政権奪回の企図はついえました。
広嗣が「朝廷の乱人」と弾劾した玄昉と真備は、貴族の世界から見れば〈部外者〉で、彼らが唐留学の知識人というだけで、権力の中枢には入り込んできたことへの反発が貴族の間に存し、広嗣に同情するものがいたと想像されます。