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  • 人は死ぬまで努力して事をなすべきであり、死んで始めてその人の功績が分かる、という意味の言葉が、「棺を蓋(おほ)ひて、事定まれり」であります。生涯を終えて棺の蓋(ふた)を閉じた瞬間から、生前の行ないに対する評価が始まり、やがて厳しい批判にもさらされることにもなるのです。

    中国における人物論は、その伝記にあらわれます。伝記の作者は、その人の事績を淡々と述べた後に、必ずその人に対する的確な評価を下します。ほめたたえることもあえば、ぼろくそにけなすこともあります。ここが伝記作者の腕の振るい所であります。

    日本における伝記は、故人を称賛することばかりで、欠点をあげつらうことは滅多ににありません。「死者に鞭打つ」ことを嫌う国民性のゆえか、新聞や雑誌に載る有名人の「評伝」を見ても、悪行の記事はお目にかかりません。

    ところが、わが国の古代の文献を読んでいると、歯に衣(きぬ)着せず物いう調子の人物評に出会うことがあります。承和10年(834)に70歳でなくなった藤原緒嗣(おつぐ)の人物評価は、まことに面白い。藤原緒嗣という人は、左大臣の官職を得て、天長2年(826)から死去するまで、17年間も朝廷の首班の地位にありました。

    『続日本後記』の彼の評伝は辛らつに書かれています。官歴を述べた後に続く人物評は、「緒嗣は政治に明るく、労せずよく国家を治めた。国の利害に関わることは、すべて天皇に意見を申し上げた」と、公卿としての治績を称えています。「但し」と続く後段は一転して、「両人から一つのことを聞く場合、先の人が語る所が冗談で、後の人が言う所が真実であっても、先に話された方を強く信じ、後で説かれた方を受け入れない。こうした偏執のため、時の人からそしられた」と酷評しているのです。原文では「先談を信じ、後説を容れず」と書かれています。

    ところで、緒嗣はこのように酷評される人物だったのでしょうか。桓武天皇に信頼され、青年貴族として民生と地方行政に意を注いています。延暦24年(805)、天下の徳政を論じ、緒嗣は「まさに今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。この両事を停(とど)むれば、百姓安んぜん」と主張しています。

    私は大学教授の現役時代、入試にこの史料を出して、「軍事」とは何か、「造作」とは何か、を問いました。もちろん軍事には(ア)隼人征討(イ)蝦夷征討(ウ)新羅征伐、「造作」には(ア)平城京建設(イ)長岡京建設(ウ)平安京建設、といった選択肢つきですが、読者の皆さん方はできたでしょうか。[解答は文末]

    さて、藤原緒嗣にかぎらず、わたしたちは「先談を信じ、後説を容れず」という過ちを犯しがちになります。現在、情報は瞬時に多量に伝達されるから、第一報を重んじ、第二報以下を軽んじる傾向にあります。だが、情報がリアル・タイム化されようとも、それが文字であれ、また言葉であれ、情報には、必ず発信者の主観が混じるものです。情報から発信者の主観を除去しようと思えるば、同じ事に関する情報を数多く集め、微妙な差異の中のから真実の要素を見出し、体験的に情報の客観性の精度を高める以外に方法はないと思います。

    解答 軍事 イ 造作 ウ