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  • 高校の教科書などに、わが国に仏教が伝来したのは、西暦538年で、一説に552年だと注記しています。それはそれで正しいのですが、どうして二説あるのか、詳しくは触れていません。

    百済の聖明王が仏像や経典を献上した時をもって「仏教公伝」とし、『日本書紀』は欽明天皇13年(552)とし、『上宮聖徳法王帝説』など他の文献では欽明天皇7年(538)とするのです。『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とでは欽明天皇の即位年が異なっており、かえってややこしくなるので言及しませんが、両説は拠って立つ史料が違うことに注意しておいて下さい。両説の間で14年の差があり、早くからいずれが正しいのか、論争が重ねられてきました。最近では百済王の即位年の異説にもとづいて、548年だという新説さえ登場する始末です。私は仏教公伝の年次論に関して、次のような考えをもっております。

    すなわち、仏教の伝来の公的な最初を「公伝」と見るかぎり、それは一回きりのことであって、年次に異説があれば、どちらか一方を取り、他方を否定しなければならなかったのです。しかし、仏教の伝来といっても、内実は仏像・経典・僧侶などの献上でありました。それがある一定の期間に何回あっても差し支えないと思います。したがって、538年にも552年にも、百済から仏像等が送られてきたと考えてもよいのす。また、この両年以外にも、仏像等が百濟から献上されてきた可能性は高いのです。

    6世紀中ごろの百済は、政治情勢や国際関係が緊迫しており、日本に軍事援助を求める代償として、先進文明の象徴たる仏像や経典を何度も献上してきました。この外交ルートにのった仏教の伝来を、公的な伝来という意味で「公伝」と表現するなら、その年次は幅をもたせて、6世紀中ごろとしておくのが妥当でしょう。

    百濟から送られてきた仏像を前に、欽明天皇は豪族たちに礼拝すべきかを問いました。ここに蘇我稲目らの崇仏派と物部尾興や中臣鎌子ら排仏派の論争が起ったことは有名は話です。崇仏・排仏に関する伝承をすべて史実だとはみなせません。だが、こうした伝承の背景には、「国神」を信奉する在来の神祇信仰の立場から、新来の仏教を「蕃神」として排斥しようとする宗教的な動きが起こったことがうかがわれるのです。

    仏教は新しく渡来してきた人々や、彼らを支配下に入れて急速に勢力を伸ばした蘇我氏や、一部の開明的な氏族に信奉されるにとどまっておりました。仏教伝来時の摩擦にもかかわらず、わが国に仏教が受容されたのは、仏教がインドから西域・中国・朝鮮と伝わるうちに、それぞれの民族宗教を包摂し、当時の国際社会ですでに世界宗教の地位を確立していたからです。

    これまで漠然と暗黒の世界としか認識しなかった死後の世界について、体系的な教理に裏付けされた仏教が、現世とは明確に異質な来世観をもたらせたことで、「他国の神」に対する憧れの念を抱かせました。このように仏教は新興勢力にはとても魅力的な先進文明であり、寺院建築や荘厳な儀礼にともなう総合文化そのものでありました。