私が住職している長香寺は、有名な観光寺院ではないので、誇らしげに寺史を語るわけにはいきませんが、どのような寺にもそれなりの歴史があるので、簡単に紹介します。
当寺は常照山長香寺と称し、本尊は阿弥陀如来(恵心僧都作と伝承)、創建は慶長11年(1606)であります。徳川家康の侍女「おこちゃ」がかねてより帰依していた浄土宗の僧「称阿上人」のために寺を建立したいと家康に懇願し、その許しを得ておりました。翌年の慶長12年12月に駿府城火災でおこちゃは焼死しましたが、家康の側近であった京都大工頭の中井正清、京都所司代の板倉勝重、御金改役の後藤庄三郎らが助力し、寺の建立が進められました。ことに中井正清は手持ちの木材(方広寺大仏殿の残木)を供出し、自ら中井家の菩提寺と定めるなど、寺の建立に尽くしました。
長香寺の山号・寺号はおこちゃの法名「長香院殿信誉常照清円大禅定尼」にもとづきます。寺地は東西52間、南北29間(1,508坪)で、9間4面の本堂、書院や庫裡のほか、元和・寛永(1615~44)のころに「嘆正院」「宝樹院」という2軒の塔頭が建てられ、元禄年間(1688~1704)には鎮守社「福増稲荷」が勧請されて、堂塔伽藍が整いました。
その後、中井家の一族である巨勢利清の娘が紀州徳川家に仕え、8代将軍吉宗の生母(お紋の方)となります。将軍の外祖父の墓所がある関係や、お紋の方の遺言によって、享保11年(1726)に幕府から祠堂金500両を下賜されています。
このように寺運隆盛でありましたが、天明8年(1788)の大火、元治元年(1864)の兵火に相次いで類焼し、寺勢はやや衰えました。なお明治2年(1869)、塔頭のあった旧境内地に下京第15番組小学校(後の有隣小学校)が作られています。
什物として絹本著色観経十六観変相図一幅(重要文化財)、中井正清画像(狩野永納筆)や中井正清手造りの茶碗(尾張焼き)、お紋の方愛用品の将棋盤(梨地蒔絵)などを所蔵し、俳人の福田鞭石の墓碑、岩井藍水の句碑もあります。
このように長香寺は文字通り「非有名寺院」でありますが、その存在を世に知っていただきたい人物があります。それは京都大工頭の中井大和守正清と徳川吉宗の生母お紋の方です。稿を改めて述べます。
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