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    『国文東方仏教叢書』という戦前に出版された叢書があります。編者は鷲尾順敬という当代一流の学者です。「国文」(日本文)で書かれた仏教書を集めておりまして、こ難しい教義書はもとより収録されていますが、「文芸」といった部類立てのもとに、仏教を主題にした「物語草子」「笑話」「落語」「今様」「謡曲」「狂言」などを収めています。

    なかでも面白いのは「俗謡」と「俗諺」です。まずここに紹介しようとするのは「俗諺」であります。「三人よれば文殊の知恵」「釈迦に説法」などは説明の必要のないほどよく知られており、こうしたことばを600も集めています。時々辞書と異なることばもあります。「しりくらい観音」は「しりくらいは観音」と出てきます。困った時には観音を念じ、楽になると「しりくらえ」とののしる所から、受けた恩を忘れてののしることを言います。こうした差異は実際にことばを集めた人の記憶の違いによるものと思われます。

    「見ぬが仏、知らぬが仏」という言葉があります。」見ぬが仏」は、見れば腹の立つことも、見なければ気にもならず、仏のように柔和な顔をしていられる、という意味です。「知らぬが仏」もよく似たことばで、知れば腹も立ち、苦悩や面倒もおこるが、知らないから腹も立たず、心の広い仏のようにしておられる。転じて当人だけが知らないで平気でいるさまをあざけって言う語です。ともに類句として「見ぬは極楽、知らぬは仏」があげられます。「見ぬは極楽」とは、不愉快なことでも見なければ極楽にいるように平気な気分でおられることです。

    つぎに面白い語句をあげると。「今はの念仏、誰でも唱える」があります。「今は」とは「今はのきわ」で、最期臨終の場面のことでです。平素は念仏なんてクソくらえで、信心のひとカケラもなかった人でも、死に際には念仏を唱えるものです。

    「百日の説法、屁(へ)一つ」。ありがたい説教も不用意にもらした屁一つで台無しになる。まじめに積み重ねてきた努力が、おもいがけない小さな失態のために、すっかり駄目になることのたとえです。

    ちょっと長くなりますが、「禅掃除、真言料理、門徒花、盛物法華、浄土じだらく」。これは仏教各宗派にみられう修行や供え物、また性格などの特色をいいあらわしています。禅宗は掃除を第一にし、真言宗の僧侶はお料理をよくし、門徒(浄土真宗)は仏前にそなえるお花を大事に考え、法華(日蓮宗)は同じく仏前の供物を重視しますが、浄土宗はなにかにつけて自堕落だというのです。浄土宗に関してはボロクソに言っていますが、一本すじが通っていないところを揶揄しています。ちなみにわが寺は浄土宗です(笑い)。

    つぎに「俗謡」を紹介します。地域的な民謡です。うたわれていた地域は前者は「信濃」(長野県)、後者は「越後」(新潟県)です。。

    〽山寺の和尚さんが、毬は蹴りたくも毬が無し。猫を三匹かん袋の中へ押し込んで、ぽんと蹴りや、にやんと泣く。ぽぽのぽんと蹴りや、にやにやのにやんと泣く。ぽんにやん、そこかい、ほいここに。

    〽開いた開いた、何の花開いた。蓮花の花開いた。開いたと思ったら、いつの間にかつぼんだつぼんだ。何の花つぼんだ。蓮花の花つぼんだ。つぼんだと思ったら、いつの間にか開いた。

    私が子供のころに姉が歌っていたのをかすかに記憶しています。あるいは小学校の唱歌で習ったのでしょうか、記憶にある歌詞も少し異なっていますが、みなさん方はかがでしょうか。