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  • さて『清張通史1」の後半については、「8 南北戦争」と「10 女王国消滅」に関するコメントをのべます。『魏志倭人伝』によると、女王国の南に「狗奴国」があって、女王に属していなかったとあります。「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず」、正始8年(245)に卑弥呼は使者を帯方郡に遣わし、「相攻撃する状」を説き、軍事援助を求めています。

    女王国と狗奴国との不和、戦争の理由を、松本清張は、一つには種族の違いだと言います。九州の南部には縄文時代よりも前から太平洋諸島の南方人の渡来が続き、九州の原住民との間で混血をくりかえし、いわば「南九州人」といった型(タイプ)ができたと想定します。一方、紀元前3世紀ごろ、朝鮮海峡を渡って来た大陸系の半島の住民は北部九州に定着し、原住民との混血によって、「北九州人」とも称すべき型ができていたと言います。3世紀の女王国と狗奴国との不和は、このような朝鮮渡来系の血と、それよりも古くからいる南方虎雄系の血の対立だったと見られます。

    もう一つの考えは、女王国が帯方郡を介して華北の魏王朝の庇護をうけたのに対して、狗奴国は華南の呉王朝からの支援をうけていたという説をほぼ支持し、九州中部と華南との直接交易ルートの存在を認めています。いわば魏と呉の代理戦争だったともいえるのです。

    『魏志倭人伝』は帯方郡から遣わされてきた役人が魏の皇帝の詔書などを披露し、檄(げき)を作って告諭したと記した後に、唐突に「卑弥呼以て死す。大いに冢(つか)を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」と、卑弥呼が亡くなったと出てきます。彼女が老齢のために死んだという説と、狗奴国との闘い中に戦死したという説がある中で、松本清張らしい第三の説を提示しています。

    『魏志東夷伝』扶余条に「旧(もと)の扶余の俗、水旱調(ととの)わず、五穀熟せざれば、輒(すなわ)ち咎を王に帰し、或は言う、当(まさ)に易(かえ)るべしと。或は言う、当に殺すべしと。麻余死して、その子依慮年六歳を立てて王となす」とあります。扶余の古い習慣では、天候不順で水害や日照りが続いて穀物が実らないときは、人びとはその災難の責めを王に帰し、或は王を代えるべきだとか、或は王を殺すべきだと言う。よって王の麻余は死に、その子依慮の年6歳なるを立てて王としたとあります。卑弥呼の死後、男王を立てたが、国中服せず、戦乱状態になったので、「また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる」という倭人伝の記事との比較において、扶余伝の麻余・依慮の記事と倭人伝の卑弥呼・壱与の記事とによく似たところがある、と松本は指摘します。

    そして松本は、「旱魃、飢饉、敗戦などの公的災禍が彼(古代の王)の生命力の衰頽を示すように見える場合には、殺されることが多かった」というフレーザーの『金枝篇』の一節を参考にして、狗奴国との敗戦によって、卑弥呼の呪力が衰頽したことが証明され、重大な敗戦の責めにより、諸部族長たちに殺された、という結論に達したのです。ここらあたりは視野が広く、諸文献をあさりこみ、さすが推理作家らしい推論だと感服する次第です。。