息子が久しぶりに実家を訪れて、松本清張の『清張通史1』という文庫本を置いていきました。私にこの本を読んでコメントを書けという信号なのであろう。私は息子に反抗する意味もあって、なかなか本を開けずにいたが、ついに息子の意図を汲んで、暇を見つけては読みだしました。私が若かりしころ、松本清張は『古代史疑』などを著わして、古代史界に乗り込んでおられましたが、所詮は小説家の珍奇な説だと、私はいっぱしの研究家ぶって、ろくすっぽ読まずにいたのです。
岩波文庫の『魏志倭人伝』(旧版・現代語訳なし)をテキストに、私は佛教大学の通信教育課程の史料購読で読んだことがありました。講義時間の関係で、逐語的に現代語訳するだけで、せい一杯だったのです。ところが、大学を去って一介の読書人となって、虚心坦懐に『清張通史1』を読むと、よく調べて書いておられることがわかったのであります。まったく並みの研究書より視野が広いのです。「魏志倭人伝」すなわち「魏志東夷伝倭人条」だけを問題とするのではなく、東夷伝のなかの高句麗条・東沃沮条・濊条など、あるいは東夷の対極に存する西戎(せいじゅう)に関する記事、西域伝をも取り上げる、という具合なのです。
内容を紹介しよう。1 神仙的「倭人伝」 2 「倭」と「倭人」 3 虚と実 4 倭の女王 5 北部九州のなかの漢 6 ツイタテ統治 7外交往来 8 南北戦争 9信仰風俗 10女王国消滅 の10章から構成されています。今回は私が興味をひかれた、1 神仙的「倭人伝」および、3 虚と実 を中心に見ていきます。
『漢書』地理志の燕地条には「夫(それ)楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為(な)す。歳時を以て来り献見すと云う」という有名な記事があります。これが中国史書の最初の記事で、岩波文庫の『魏志倭人伝』の「参考原文」にも載せられています。ところが、この文の前には「東夷天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子は道の行なわれざるを悼(おし)んで、桴(いかだ)を海に設け、九夷の外に居らんと欲す。故あるかな」という主文があるのです。東夷は北狄(ほくてき)・西戎・南蛮の「三方」とは違って、性質が柔順であるから、孔子はそこへ桴に乗って、海をわたり、中国では絶望したところの道徳を教えたい、という主文を省略して、私ども歴史学者はいきなり、楽浪郡の海の向こうに倭人が居て、云々と議論してきたのです。一般に人文研究者は自分に都合のよい箇所だけを抜き出して議論するものです。
松本清張は言う、「東夷が天性柔順というのは、東方にユートピアがあるという中国古代の神仙思想からきている」と。倭人伝に、「其の人寿考(長生き)、或は百年、或は八、九十年。……婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし」とあります。百歳から八、九十歳の長寿はざらで、婦人はみだらでなく、嫉妬もせず、盗みもしない、したがって訴訟がほとんどない。これは神仙思想のあらわれだ、と言うのです。私などは、このところはひげをたくわえた異邦人は老けて見えたのだろう、と意訳してきました。松本のように、神仙思想で書かれているとは考えもしなかったのです。また途中の距離や国々の戸数の「千余里」「三千ばかりの家」「七万余家ばかり」などは、陽数(奇数)を好む陰陽五行説による架空の数字だと言うのです。
さて、邪馬台国論の最大の問題は、位置論だと思います。皆さんもご承知の通り、九州説と畿内説に大別されます。倭人伝には帯方郡より女王国(邪馬台国)に至る距離と方角が細かに記されていますが、九州説にしろ畿内説にしろ、「倭人伝の書き間違い」を想定しなけば、成り立ちません。しかし「(帯方)郡より女王国に至る万二千余里」が絶対数であります。途中の国々に至る里数、陸行・水行の日数を里数に直して、足したり引いたりしても、「一万二千」に合わさねばなりません。ところが松本清張は、『漢書』西域伝に、漢の直属国になっていない西域諸国は、長安からの距離がすべて「万二千里」となっていることに注目し、「万二千里」とは、中国の直接支配をうけていない国の王都がはるか絶遠のかなたにあることをあらわす観念的な理数であると言うのです。「万二千里」が遠隔地の意味をあらわす観念的数字だとする松本説からすると、それを実数のように信じて、あれこれと議論してきたこと自体がナンセンスとなります。
行程記事の「虚」と「実」にふりまわされずに、邪馬台国論争の解決策はあるのでしょうか。私は大学での講義の最後にいつも、「邪馬台国の位置論争を諸君らが解決しようと思えば、卑弥呼がもらった「親魏倭王」という金印を掘り当てることだ」と煙に巻いて、教壇を去ったものです。