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  • わが国の仏教受容について、次のように考えるのが一般的です。仏教本来の教義が正しく理解されることはまれで、仏への信仰は病気平癒や五穀豊穣、祖霊慰撫などの形態をとり、わが国固有の信仰・習俗(「古代神道」)と本質的に相違なかった、と。しかし、そうした共通性はあったにしろ、祭りの対象や儀礼の様式を異にするかぎり、仏教と古代神道(神祇信仰)とはそれぞれ独自性を保って、混交は起りえなかったはずです。だが、現実には神祇信仰と仏教は交流し、融合し、また相互に変容し合ったのです。仏教と神祇信仰の融合や混交の状況を、一般に神仏習合とよんでいます。神仏習合は仏教と神祇信仰の融和をいいますが、「習」は重ねることを意味し、明治維新で強行された「神仏分離」まで続き、私などは「日本教」とでも称すべき宗教状況だと考えています。仏教と神道が全くの別物とみるのは、たかだか明治維新後150年に過ぎません。

    神仏習合は、日本人の精神生活のなかに仏教を浸透させるため、わが国の伝統的な宗教意識や民間習俗を否定せずに、むしろこれらを積極的に包摂していった結果生じた、わが国独特の宗教文化であります。神仏習合の思想は、ごく単純化していえば、仏教の立場から日本の神々をどのように位置づけるのか、という神仏の関係論でもあります。そこで(1)「神」は「仏」を尊び護る、(2)「神」は「仏」に救済される、(3)「神」は「仏」が衆生を救うために姿を変えて現れた、という教説が考え出されました。(1)と(2)はすでに奈良時代から見え、(3)は平安中期に「本地垂迹説」として理論化されますが、ここでは神仏習合の理論としてなじみの薄い(1)のうちでも「神は仏法を悦び受く」という思想を中心に紹介したく思います。

    古代の人びとは、「神」よりも一段と優れた魅力を「仏」の方に見出だしたと言われています。そこで神々に対して仏教の儀礼をたむけることがありえたのです。たとえば天平13年(741)宇佐八幡宮に、前年の藤原広嗣の乱を平定したお礼として、錦の冠、金字の最勝王経、法華経、僧、馬をたてまつり、三重塔を造らせています。冠や馬はこれまでも神への献上物でありましたが、経典と僧、そして三重塔の建造は、従来まったく見られなかった祭祀の様式でした。神に奉納(神前読経)する経典、神に仕える僧(社僧)、神のために建てる仏塔が、それぞれ意味するところは大きいのあります。

    こうした仏事の功徳を神にたむけることは、「神は仏法を悦び受く」という思想にもとづくと考えられます。奈良時代において、宇佐の八幡の神のほか、越前の気比(けひ)の神、若狭の若狭比古(ひこ)の神、伊勢の多度(たど)の神のために、神宮寺が建てられいます。神宮寺とは、神のために建てた寺院のことで、神願寺とも称し、多くの場合、神社に近接して建造されましたが、明治の廃仏毀釈(きしゃく)で壊されています。明治維新は幕藩体制をこわしただけでなく、宗教文化そのものを根底から変容させてしまったのです。

    神宮寺の創建の事情を伝えるところでは、「神」もまた衆生と同じレベルで、苦悩するがゆえに「仏」に帰依し、仏道を修行したいと願い、その託宣を聞いた者が、神のために寺院を建立したのです。神の苦悩とは、農村社会を襲う自然災害のことを指すのでしょうが、そうした災害を、従来は神の怒りや祟(たた)りと考えていました。しかし、仏教の立場からは、災害は神が迷いの世界に沈み、宿業(しゅくごう)によって受けた苦しみの表れであると見なしのです。神が仏教によって救われることで、人びとは災害から免れると考えたのです。こうした神仏習合の思想によって、我が国の神への意識が変わっていったのです。

    ところで、今回の話は面白くなかったに違いありません。すみません。実は私の住む寺には「福増稲荷」(ふくますいなり)という小さな祠(ほこら)があります。伏見の稲荷大社の氏子圏に存するためか、江戸時代の元禄年間に寺の「鎮守神」として勧請されました。明治の時に壊されなかったのは、余りにも小さすぎたからだったからと思います。今も残る鎮守社のために、僧である私は般若心経をあげて、神仏習合の形骸を守っています。