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    八代将軍徳川吉宗の生母について、巷間にさまざまな説が出ております。ネットで検索しますと、和歌山市の長保寺のホームページに、「素性が知れない人である。まず名前をお由利ともお紋ともいう説があり、よくわからない。町医者の娘という説、百姓の子という説、西国遍路の行き倒れの子という説もある。つなげて考えてみれば、どこかの食い詰めた百姓女が土地を捨て娘を連れ遍路に出て行き倒れた、それを親切な町医者が看病したが亡くなった、残された子を養女にした、美しく育った娘がお城に上った、というあたりか」とあります。まったく氏素性の知れない人というのです。

    YAHOO!知恵袋のゲストアンサーに「吉宗の生母であるお由利(ゆり)の方の素性ははっきりしていません。巨勢(こせ)六右衛門の娘、京都西陣の商家の娘、西国巡礼の女が連れていた娘など様々な説がありますが、いずれにしても身分の低い出自であったようです」とあり、父の名を巨勢六右衛門という説が出ています。

    徳川将軍の事績を詳細に記録した『徳川実記』をみますと、「御母は紀伊の家士巨勢八左衛門利清の女にて、贈従二位紋子(由利)と聞ゆ」とあります(享保元年五月条)。由利ともよばれていたかのようです。しかし、利清の次男の「巨勢十左衛門由利(よしとし)」と孫の「六左衛門至信(ゆきのぶ)」がそれぞれ5000石の幕臣に取り立てられますが、この由利との混同ではないかと思います。

    お紋の方の父が紀伊藩士というのは、紀伊藩主徳川光貞の側室となって吉宗を生んだこと、弟と甥が大身の旗本となったことで、家系を飾る必要があったからだと思いますが、巨勢氏の出自は否定できません。この巨勢利清は、じつは京都大工頭の中井家の一族なのであります。

    巨勢氏の先祖のことは、『寛政重修諸家譜』に、正利――利次――利盛――利清と次第する系譜を簡単に記します。正利(1537~1610)は巨勢甚太夫といい、中井正清の父・巨勢孫太夫正吉(豊臣秀吉の大坂城を築く)の弟です。その子の利次(1580~1626)は中井正清の従弟に当たり、正清が行なった各地の造営工事を助けています。正清と利次は姓を巨勢から中井に改めております。利盛と利清についてはよくわかりませんが、巨勢至信の子孫が長香寺に奉納した「巨勢系図」にある程度のことを記していますので、ここに紹介します。

    利盛は八郎右衛門といい、慶長14年(1609) に生まれ、洛陽に浪居、茶道を好み、明暦3年(1657)49歳で死去、長香寺に葬るとあります。そして利清は八左衛門といい、寛永7年(1630)に生まれ、洛陽に浪居、姓を中井から巨勢に復し、寛文12年(1672)43歳で死去、長香寺に葬るとあります。利清の妻(お紋の方の母)は、嵯峨大覚寺宮の家臣坪井源兵衛義高の女で、名はわかりません。寛永5年(1628)に生まれ、宝永5年(1708)81歳で死去、紀州名草郡の若山(和歌山)の大立寺に葬るとあります。

    利清は2男2女をもうけ、長女はお紋の方、明暦2年(1656)の生まれ。長男は忠善。勘左衛門といい、万治元年(1658)山城国に生まれ、洛陽に浪居、元禄7年(1694)に紀伊殿(光貞卿)に召し出され、同12年(1699)42歳で死去、若山の大立寺に葬るとあります。なおこの忠善の子が至信です。次女は名も生没年も不詳。長香寺に葬るとあるだけです。次男は由利。十左衛門といい、寛文3年(1663)山城国に生まれ、元禄2年(1689)に紀伊殿に召し出され、享保3年(1718)にお紋の方のお供で江戸に下り、幕臣に列せられます。

    ここに「巨勢系図」に基づいて長々と述べたのは、徳川吉宗の生母に関する俗説の誤りを正し、真説を明らかにしたいからです。まず父親は巨勢八左衛門利清といい、一生浪人でした。母親の名は不詳ですが、坪井源兵衛義高の娘です。寛文3年生まれの由利の生国が山城となっており、おそらく夫の利清が亡くなる寛文12年まで京都にいたものと思われます。そして吉宗が生まれる貞享元年(1684)の前年までに、娘のお紋の方を伴って紀伊に移り住んだのでしょう。この時、母親は50歳前後、娘は20歳前半の年齢と推測されます。

    お紋の方(法名は浄円院)の出自について、氏素性がすっきりしないという俗説は誤りで、京都大工頭の中井家の支族、巨勢利清の娘であったことは確かです。長香寺に巨勢利清の墓碑も現存します。享保3年4月、お紋の方が江戸城二の丸へ入るため、和歌山より江戸へ下向するに当たり、長香寺の住職が伏見にてお紋の方に会うべくお供の巨勢由利の旅宿まで赴いています。『知恩院日鑑』には「長香寺儀、御先祖御牌前御由緒故」とあって、長香寺は浄円院様(お紋の方)のご先祖の位牌を祀っているという由緒がある故に、特別の計らいだというのです。

    こうした文献によっても、お紋の方の出自は明らかです。歴史の真相を探ろうとする人たちに知っていただきたく、駄文を弄しました。

    ここに紹介する京都大工頭(だいくがしら)中井大和守正清(1565~1619)は余り知られていませんが、徳川家康の側近として、城郭や京都御所や大寺院を造営した人物です。「京都大工頭」とは江戸幕府の官職で、正清は家康の命令を奉じ、上方の大工職人集団を各地に率いて、大型建築物の造営に当たりました。彼の事跡は、直系の子孫である中井正知氏の『豊臣から徳川政権を駆けぬけた「御大工の巨人、中井大和守正清」』(『アップル叢書』23号)という著書に詳しく書かれています。

    さて、中井家の子孫が幕府に提出した「先祖書」(『史籍雑纂』三所収「家伝史料」七)に、正清が造営した主要なものとして、京都御所、駿府城、名古屋城、大仏殿(京都・再建)、江戸城(縄張り・町割り)、日光(宮地見分)、増上寺、知恩院などを挙げています。このほか、我が国最古の法隆寺を修理し、徳川将軍の権威の象徴たる江戸城の天守閣を築いております。京都の二条城の造営や伏見城の修築も正清の手になるものです。

    豊臣秀吉が建てた京都の大仏殿が慶長の大地震で倒壊し、豊臣秀頼が慶長14年(1609)から再建に取りかかります。作事は片桐且元が奉行をつとめ、中井正清が大工棟梁となりました。大仏殿が16年暮れに成り、大仏本尊や梵鐘の鋳造も進み、19年8月に大仏開眼と堂供養を行なうことが決まっていました。ところが、直前の7月に延期されることになります。鐘銘と棟札が問題となったのです。

    中井正清が駿府の家康に鐘銘と棟札の写しを送り、棟札に大工棟梁の名がないことを訴えたのです。ご承知のとおり、鐘銘に「国家安康、四海施化、萬歳伝芳、君臣豊楽」とあったので、家康の名を分けた上に、豊臣を君として楽しむ意図があると、片桐且元らを難詰し、ついに大坂冬の陣となる切っ掛けとなりました。

    中井正清は大仏造営深く関わり、常に家康の意を受けて行動しており、このあたりの事情は、家康の動静を書いた『駿府記』や金地院崇伝の日記『本光国師日記』などに出てくるので、史実だと考えられます。鐘銘問題を引き起こしたのは、もちろん正清の独断ではなく、幕府の重臣たちとの連携をとっていたに違いありませんが、大仏開眼と堂供養の準備に奔走していた正清なればこその「快挙」でしょう。

    中井正清が多彩な技術者であったことを示す史料があります。慶長19年9月に林道春(羅山)が吉田与一(角倉素庵)に充てた書状(『大日本史料』第12編14)によると、宇治川の上流を疎通して船路を切り開く計画があり、正清と道春が家康に言上したところ、家康は大層喜び、たとえ船が上下できなくとも、岩石が取り除かれ湖水がすけば、水田6~7万石が生じ、湖水が2尺3尺なりとも引けば、近江で20万石の新田が生じると算段しています。また下流の摂津・河内も河水にあふれることもなくなると言っています。従って宇治川を疎通する計画を立てるように与一に伝えています。

    このような水田の計算や水利の利点は儒者の道春にわかるはずはなく、おそらく正清の算段だと思います。正清は「轆轤にて大石をば引倒し候ても」成し遂げよと言ったとあります。ここらは当代一流の土木工事者の面目躍如たるところでしょう。