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    ここに紹介する京都大工頭(だいくがしら)中井大和守正清(1565~1619)は余り知られていませんが、徳川家康の側近として、城郭や京都御所や大寺院を造営した人物です。「京都大工頭」とは江戸幕府の官職で、正清は家康の命令を奉じ、上方の大工職人集団を各地に率いて、大型建築物の造営に当たりました。彼の事跡は、直系の子孫である中井正知氏の『豊臣から徳川政権を駆けぬけた「御大工の巨人、中井大和守正清」』(『アップル叢書』23号)という著書に詳しく書かれています。

    さて、中井家の子孫が幕府に提出した「先祖書」(『史籍雑纂』三所収「家伝史料」七)に、正清が造営した主要なものとして、京都御所、駿府城、名古屋城、大仏殿(京都・再建)、江戸城(縄張り・町割り)、日光(宮地見分)、増上寺、知恩院などを挙げています。このほか、我が国最古の法隆寺を修理し、徳川将軍の権威の象徴たる江戸城の天守閣を築いております。京都の二条城の造営や伏見城の修築も正清の手になるものです。

    豊臣秀吉が建てた京都の大仏殿が慶長の大地震で倒壊し、豊臣秀頼が慶長14年(1609)から再建に取りかかります。作事は片桐且元が奉行をつとめ、中井正清が大工棟梁となりました。大仏殿が16年暮れに成り、大仏本尊や梵鐘の鋳造も進み、19年8月に大仏開眼と堂供養を行なうことが決まっていました。ところが、直前の7月に延期されることになります。鐘銘と棟札が問題となったのです。

    中井正清が駿府の家康に鐘銘と棟札の写しを送り、棟札に大工棟梁の名がないことを訴えたのです。ご承知のとおり、鐘銘に「国家安康、四海施化、萬歳伝芳、君臣豊楽」とあったので、家康の名を分けた上に、豊臣を君として楽しむ意図があると、片桐且元らを難詰し、ついに大坂冬の陣となる切っ掛けとなりました。

    中井正清は大仏造営深く関わり、常に家康の意を受けて行動しており、このあたりの事情は、家康の動静を書いた『駿府記』や金地院崇伝の日記『本光国師日記』などに出てくるので、史実だと考えられます。鐘銘問題を引き起こしたのは、もちろん正清の独断ではなく、幕府の重臣たちとの連携をとっていたに違いありませんが、大仏開眼と堂供養の準備に奔走していた正清なればこその「快挙」でしょう。

    中井正清が多彩な技術者であったことを示す史料があります。慶長19年9月に林道春(羅山)が吉田与一(角倉素庵)に充てた書状(『大日本史料』第12編14)によると、宇治川の上流を疎通して船路を切り開く計画があり、正清と道春が家康に言上したところ、家康は大層喜び、たとえ船が上下できなくとも、岩石が取り除かれ湖水がすけば、水田6~7万石が生じ、湖水が2尺3尺なりとも引けば、近江で20万石の新田が生じると算段しています。また下流の摂津・河内も河水にあふれることもなくなると言っています。従って宇治川を疎通する計画を立てるように与一に伝えています。

    このような水田の計算や水利の利点は儒者の道春にわかるはずはなく、おそらく正清の算段だと思います。正清は「轆轤にて大石をば引倒し候ても」成し遂げよと言ったとあります。ここらは当代一流の土木工事者の面目躍如たるところでしょう。