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    今年(令和元年)もお盆には檀家さんの家にうかがって、お経をあげることになっています。もちろん私は体調を損ねているので、大半は副住職がお参りします。仏壇まわりの飾りをお盆向きに改める家は、京都の市中でも随分と少なくなりました。六道珍皇寺へお精霊(しょらい)さんを迎えに行く人も年ごとに減っているようです。京都だから古来の伝統的な慣習を多く残していると考えるのは、じつは単なる思い込みではないでしょうか。都市の民俗は、あるものは墨守される反面、他のものは廃れて継承されなくなるーー最近このように感じながら、江戸初期の京都の年中行事や民族を記した『日次記事』(ひなみきじ)を読みました。

    盂蘭盆会(うらぼんえ)について、7月1日条に、「今日より十五日に至るまで、俗に盂蘭盆という。また専ら盆と称す。諸寺院門前の樹頭、或いは別に柱を建てて、以て高く灯篭を懸く。毎夜灯火を点ず。これを上(あげ)灯籠と称す」と注記しています。いつごろ廃れたのか、私は寺院の門前に「上灯籠」をかかげるのを見たことはありません。お盆の月の京都は、夜は灯籠であふれていたらしく、ことにお盆本番の十三日から十五日にかけて、公家などから禁中に灯籠が献上されて、諸人がこれを見物しています。現在も京都御所でお盆に灯籠が設けられるのか、寡聞にして知りません。

    また月末の条に、「この月、朔日より十五日に至るまで、諸寺院に於て施餓鬼(せがき)の法事を修す。これを盂蘭盆会という」ともあります。お盆に施餓鬼の法要はつきものですが、現在、市中の浄土宗寺院では、お盆の施餓鬼を営んでおりません。

    また、14日条にも盂蘭盆会として、「今日より十六日に至るまで、人家棚を設け、各位の牌を安んじ、盂蘭盆会を修す。その式、飯器を公卿(くぎょう)の台・破子(わりご)・加牟奈加計(かむなかけ)に載せ、ならびに茶菓香華を供してこれを祭る。また鼠尾草(みそはぎ)を以て水を灌(すすぎ)てこれを拝す。これを水を向くるという。その家の宗門の僧徒、来りて経を誦す。これを棚経と称すなり」と注記しています。「公卿の台」とは三方(さんぼう)の台、「破子」とは円形の食器、「加牟奈加計」とは倍木(へぎ)を言います。いずれも白木で作った器台であります。今日のように塗りのお膳を使うことはなかったのです。「水向け」に使うお椀と禊萩(みそはぎ)の小枝さえ、置いてある家は、これまた少なくなりました。

    白木の造作物は一度きりの使い捨て。塗りの器物は毎年用。どちらが丁寧な用途になるのかは判然としています。毎年新たに作る白木の方が丁寧であることは一目瞭然です。生活文化は常に重厚から軽薄へ、丁寧から粗雑へと移っていきます。これを私は「文化のカジュアル化」と呼んで居ます。

    お盆の民俗が時代とともに変遷することは、嘆かわしいことではないと思います。上灯籠が点じられなくても、白木のヘギが朱塗りのお膳に変わろうとも、大した問題ではありません。祖霊を迎えて供養する気持ちのある事の方が肝心です。ところが、民俗を支える庶民の考えはどうでしょうか。

    月末の条に「この月、公武両家、各(おのおの)尊親を饗せらる。これを生身魂(いきみたま)という。或は生盆(いきぼん)と称す。地下(じげ)の良賤もまた然り」とあります。身分の上下を問わず、お盆の月は両親にご馳走してもてなし、これを「生身魂」あるいは「生盆」と言っていたのです。祖霊に飲食物を供えるのも、生きている両親をもてなすのも、ともに孝養の心のあらわれです。シニミタマ(死身の霊魂)に対して、イキミタマ(生身の霊魂)と称している点が面白い。貧しき農民が、死んでから供えてもらうより、生きている今に食わせてくれ、と叫んでいる悲痛な声が聞こえてきそうです。それをイキボンとよべば、死者のためのお盆というよりも、生者のためのお盆になってしまいます。

    信心うすい現代では、お盆は「お盆休み」と同義になっています。お盆前に、ある寡婦の檀家さんが「お盆は孫とディズニーランドに行きますので、和尚(おっ)さん、お寺で拝んどいとおくれやす」と棚経をことわってきました。死んだ亭主の精霊と一緒にいるよりも、かわいい孫とお盆休みを過ごす、これこそ生盆ではないでしょうか。今年もお盆休み明けの空港から排出されてくる人々の映像が映りだされますが、彼らは「生盆」の典型であります。しかし、「文化のカジュアル化」の度を越したただの遊民てもあります。

     

     

    毎年のお盆には、私は坊主の端くれとして、檀家さんの棚経(たなぎょう)にうかがいます。その時、仏壇まわりの飾りをお盆向きに改める家は、京都の市中では随分と少なくなりました。六道珍皇寺へ精霊(しょうりょう)を迎えに行く人も年ごとに減っているかに聞きます。京都だから古来の伝統的な習慣を多く残していると考えるのは、実は単なる思い込みではないでしょうか。都市の民俗は、あるものは固守され、あるものは廃れて継承されなくなる、――最近、このように感じながら、江戸初期の京都の年中行事や民俗を記した『日次紀事(ひなみきじ)』という本を読みました。

    盂蘭盆会(うらぼんえ)について、7月1日条に「今日より十五日に至るまで、俗に盂蘭盆といふ。また専ら盆と称す。諸寺院門前の樹頭、或は別に柱をた建てて、以て高く灯篭を懸く。毎夜灯火を点ず。これを上げ灯籠と称す」と書かれています。この『日次紀事』はすべて旧暦で書かれおり、現代の京都ではお盆を8月に行ないますが(正しくは月遅れのお盆と言う)、私は寺院の門前に「上げ灯籠」をかけているのを見たことがありません。また月末の条に、「この月、朔日(ついたち)より十五日に至るまで、諸寺院に於て施餓鬼の法事を修す。これを盂蘭盆会といふ」ともあります。お盆に施餓鬼(せがき)はつきものですが、現在、市中の浄土宗寺院では、お盆の施餓鬼を営んでおりません。

    14日条にも盂蘭盆会として、「今日より十六日に至るまで、人家棚を設け、各位の牌を安んじ、盂蘭盆会を修す。‥‥‥その家の宗門の僧徒、来りて経を牌前に誦す。これを棚経と称すなり」とあります。飯器を白木の三方やヘギに載せて祭るともあります。朱塗りのお膳を用いることはなかったのです。私などは、棚経は交通の事情もあって、8月の早い日時から檀家さんを回っています。

    京都の精霊迎えとして著名な六道参りは、9日条に「男女鐘を撞(つ)きて聖(精)霊を迎ふ。各(おのおの)槙(まき)の枝を買て携へ帰る。俗に伝ふ、今日聖霊、槙の枝に乗じて来ると。これ附草(つきくさ〉・依木(よりき)の義か」と記しています。附草・依木とは霊魂がとりつく草木のことです。年々に減少するとはいえ、六道参りの人はいます。迎え鐘をつくことを知っていても、祖霊がよりついた高野槙を持ち帰って精霊棚に供えるという習慣がわかる人は多くないのです。

    お盆の民俗が時代とともに変貌するのは、嘆かわしいことではありません。寺の門前に灯籠が点じられなくても、あるいは白木のヘギが朱塗りのお膳に変わろうとも、祖霊を迎えて供養する気持ちのある方が肝心なのです。ところが、民俗を支える庶民の考えはどうでしょうか。

    7月末条に、「この月、公武両家、各尊親を饗応せらる。これを生身魂(いきみたま)といふ。或は生き盆と称す。地下(じげ)の良賤もまた然(しか)り」とあります。身分の上下を問わず、お盆の月には両親にご馳走をもてなし、これを「生身魂」あるいは「生き盆」と称したのです・祖霊に飲食物を供えるのも、生きている両親をもてなすのも、ともに孝養心の現れですが、シニミタマ(死身の霊魂)に対してイキミタマ(生身の霊魂)と称している点が面白い。食うや食わずの人が多かった江戸期なら、死んでから供えてくれるより。生きている今に食わせてくれ、という悲痛な声が聞こえて来そうです。それをイキボンと呼べば、死者のためのお盆というより、生者のためのお盆となってしまいます。

    信心うすき現代では、お盆は《お盆休み》と同義になっています。お盆前に、ある未亡人の檀家さんが「お盆は、孫とディズニーランドにいきますんで、和尚(おっ)さん、お寺で拝んどいとくれやす」と棚経を断ってきました。死んだ亭主の精霊と一緒にいるよりも、かわいい孫とお盆休みを過ごす、これこそ生き盆ではないでしょうか。