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  • 毎年のお盆には、私は坊主の端くれとして、檀家さんの棚経(たなぎょう)にうかがいます。その時、仏壇まわりの飾りをお盆向きに改める家は、京都の市中では随分と少なくなりました。六道珍皇寺へ精霊(しょうりょう)を迎えに行く人も年ごとに減っているかに聞きます。京都だから古来の伝統的な習慣を多く残していると考えるのは、実は単なる思い込みではないでしょうか。都市の民俗は、あるものは固守され、あるものは廃れて継承されなくなる、――最近、このように感じながら、江戸初期の京都の年中行事や民俗を記した『日次紀事(ひなみきじ)』という本を読みました。

    盂蘭盆会(うらぼんえ)について、7月1日条に「今日より十五日に至るまで、俗に盂蘭盆といふ。また専ら盆と称す。諸寺院門前の樹頭、或は別に柱をた建てて、以て高く灯篭を懸く。毎夜灯火を点ず。これを上げ灯籠と称す」と書かれています。この『日次紀事』はすべて旧暦で書かれおり、現代の京都ではお盆を8月に行ないますが(正しくは月遅れのお盆と言う)、私は寺院の門前に「上げ灯籠」をかけているのを見たことがありません。また月末の条に、「この月、朔日(ついたち)より十五日に至るまで、諸寺院に於て施餓鬼の法事を修す。これを盂蘭盆会といふ」ともあります。お盆に施餓鬼(せがき)はつきものですが、現在、市中の浄土宗寺院では、お盆の施餓鬼を営んでおりません。

    14日条にも盂蘭盆会として、「今日より十六日に至るまで、人家棚を設け、各位の牌を安んじ、盂蘭盆会を修す。‥‥‥その家の宗門の僧徒、来りて経を牌前に誦す。これを棚経と称すなり」とあります。飯器を白木の三方やヘギに載せて祭るともあります。朱塗りのお膳を用いることはなかったのです。私などは、棚経は交通の事情もあって、8月の早い日時から檀家さんを回っています。

    京都の精霊迎えとして著名な六道参りは、9日条に「男女鐘を撞(つ)きて聖(精)霊を迎ふ。各(おのおの)槙(まき)の枝を買て携へ帰る。俗に伝ふ、今日聖霊、槙の枝に乗じて来ると。これ附草(つきくさ〉・依木(よりき)の義か」と記しています。附草・依木とは霊魂がとりつく草木のことです。年々に減少するとはいえ、六道参りの人はいます。迎え鐘をつくことを知っていても、祖霊がよりついた高野槙を持ち帰って精霊棚に供えるという習慣がわかる人は多くないのです。

    お盆の民俗が時代とともに変貌するのは、嘆かわしいことではありません。寺の門前に灯籠が点じられなくても、あるいは白木のヘギが朱塗りのお膳に変わろうとも、祖霊を迎えて供養する気持ちのある方が肝心なのです。ところが、民俗を支える庶民の考えはどうでしょうか。

    7月末条に、「この月、公武両家、各尊親を饗応せらる。これを生身魂(いきみたま)といふ。或は生き盆と称す。地下(じげ)の良賤もまた然(しか)り」とあります。身分の上下を問わず、お盆の月には両親にご馳走をもてなし、これを「生身魂」あるいは「生き盆」と称したのです・祖霊に飲食物を供えるのも、生きている両親をもてなすのも、ともに孝養心の現れですが、シニミタマ(死身の霊魂)に対してイキミタマ(生身の霊魂)と称している点が面白い。食うや食わずの人が多かった江戸期なら、死んでから供えてくれるより。生きている今に食わせてくれ、という悲痛な声が聞こえて来そうです。それをイキボンと呼べば、死者のためのお盆というより、生者のためのお盆となってしまいます。

    信心うすき現代では、お盆は《お盆休み》と同義になっています。お盆前に、ある未亡人の檀家さんが「お盆は、孫とディズニーランドにいきますんで、和尚(おっ)さん、お寺で拝んどいとくれやす」と棚経を断ってきました。死んだ亭主の精霊と一緒にいるよりも、かわいい孫とお盆休みを過ごす、これこそ生き盆ではないでしょうか。